読書日記のページ

2001年3月

2001年3月25日

 『MacPower』2001年4月号(12巻4号)の川崎和男「Desigin Talk V 3 むなしい」が泣ける。久しぶりかもしれない。
 著者の高校時代の友人が亡くなった、という話なのだが、この友人というのが、かつて話題になったけどもはや誰も覚えていない(あー、あれだ、ってのはわかるんだけど、名前が出てこない……)某国策マルチメディアプロジェクトの後始末を押しつけられ、それでもなお、「誰かが決着させなきゃならん」と腹を括って立ち向かっていた、という。そして、その道半ばにして、心筋梗塞で倒れたのだと。

 私にOの悲報をふるさとから届けてくれた親友Tが、吐き捨てるように言った。Tもやるせないむなしさをうち消すように、「一世代上の連中が許せないんだ。Oの弔い合戦をやる覚悟をしている」。

 という言葉を読んで、思わず共感してしまったけれど、考えてみたら、私にとっての上の世代って、著者の世代なんじゃ……(世代の単位によって一世代が二世代か、って話はあるが)。
 結局、上の世代が、負債を下の世代に引き受けさせてトンズラ、という構図が、様々なレベルで繰り返されているのかもしれない。どこかでこの負の連鎖を断ち切るか、あるいは、不良債権処理じゃないけど、負債そのものを償却してしまわないと、どうしようもないよなあ。
 が、自分の属している組織の「一世代上の連中」がどこまでそういうことをわかっているのか、どうも怪しい気がする。
 その一方で、若い世代は状況がよく見えているのか、退職して別の道を選ぶ人が続出している。行った先で、同じ構図が繰り返されたりしていないことを祈るしかない。
 自分が出世するとか、そういうレベルの局地戦に勝っても意味がない。でも、状況が見えてないけど、出世欲が強い、というタイプほど、結構出世するんだよなあ。そしてまた負債を増やすわけだ。
 何とか踏みとどまって、チャンスを待とう、とは腹を括ってはいるのだけど、時々、むなしい気分におそわれてしまう。

 むなしさを抱え込んでいてはだめだ。むなしさと、かなしさややるせなさは、そこに秘められた温度差があるものだ。その温度差は、むなしさの体温だけで、エネルギーを発火させることができると信じたい。

 私も信じたい。

2001年3月20日

 新宿の小田急美術館で開催されている「牧野富太郎と植物画展」(2001年3月14日〜4月8日)を見に行ってきた。
 高知県立牧野植物園所蔵資料の展示会、といってもいいかもしれない。『日本植物志図篇』『新撰日本植物図説』『大日本植物志』といった明治期の大型植物図譜や、その原図、さらにその元になったスケッチ、あるいは細部まで赤の入った校正刷りなど、植物画家としての牧野富太郎の功績を様々な角度から見ることができるようになっている。
 恐ろしいほど細部まで(筆で!)描き込まれた図は驚異的。しかも、限られた紙面に最大限の情報を効率よく、かつ美しく詰め込もうとするレイアウトへの執念が物凄い。
 カタログもカラー図版多数で豪華(でも比較的安い)。解説も充実しているし。うーん、新聞(毎日新聞)と百貨店が絡むとこういうところが強いよなあ。
 あと、牧野富太郎が、服部雪斎や関根雲停といった、幕末から明治初期に活躍した博物画家の自筆植物画を持っていたことを、今回初めて知った。出てたので全部かなあ。もっとあるのかなあ。気になる。

2001年3月18日

 すっかり忘れていたが、小野不由美『黒祠の島』(祥伝社NON NOVEL, 2001)をちょっと前に読んだのだった。
 「長編本格推理」と表紙カバーに書いてあったりするとはいえ、また『東亰異聞』みたいなオチだったらどうしよう、と一抹の不安……は的中しなかったので、まあいいのかな。
 どっちかっていうと、『屍鬼』から屍鬼ネタを抜いたものに近い感じ。山じゃなくて海で隔てられているだけで、独自の習俗を持った村社会とか、医者とか、寺の代わりに神社とか、舞台に使われている道具立ての共通性が顕著(他にもあんなのとかこんなのとか……って、書くとネタをばらしてしまうので書かないが)。もしかすると、『屍鬼』では屍鬼という存在ゆえに今一つ目立ちきれなかった、隔絶した村に隠された習俗や社会構造、というような部分を前面に出したかったのかなあ、などと想像したりして。
 実際、トリック(?)そのものより、独特の宗教や社会構造を、よそ者の目から見て明らかにしていく過程の方が面白かった。十二国記もそうだけど、こういう舞台となる世界の組み立てが上手い人なんだなあ。そういう部分が楽しめる人にとっては楽しいと思うけど(どっちかっていうとSF者向き?)、ミステリーファンにとってどうなのかは(あんまりミステリーは読まないので)不明。

 と、小谷野敦『軟弱者の言い分』(晶文社, 2001)も読んだ。
 『樹』という俳句同人誌(とあとがきに書いてある)に書いたエッセイを中心に、あっちこっちに書いた短めのエッセイを加えて一冊にまとめたもの。
 個々の文章は短いので読みやすいんだけど、著者の他の本を読んでいる人にとっては、ちょっと物足りないかも。でも、そうかあの本は売れなかったのか、とか、賞に対するこだわりが凄いなあ、とか、やっぱりキャンディ・キャンディだよなあ、とか、とにかくすげー読書量だ、とか、色んな意味で著者のただ者でない様子が浮かび上がってきて、いい感じ。そういう本なので、『もてない男』みたいなものを期待してはいけない。タイトルはちょっと狙いすぎか?
 個人的に一番面白かったのは、朝日新聞の「ウォッチ文芸」(1998年4月から1999年3月まで担当とのこと)を、当時の状況や取り上げずに没にした本などについてのコメントを加えてまとめたところ。連載当時、結構、気になって毎回読んでいたものだけに、こういう裏事情があったとは、とか、そうか取り上げられたあの本は売れなかったのか(なんかこんなのばっかりだなあ)、とかいう感じで楽しめる。当時、「ウォッチ文芸」欄をチェックしていた人は必読。

2001年3月11日

 最近読んだ本を二冊ほど。

 まずは、戸部良一・他『失敗の本質 日本軍の組織論的研究』(中公文庫, 2000)。最初のこの本を見たのは、どっかのビルに入っている書店の、去年のビジネス書売り上げベスト10、みたいなコーナー。そこでこれのハードカバー版(ダイヤモンド社, 1984)を見て、ちょっと気になっていたんだけど、別の書店で文庫版を発見してふらふらと買ってしまった。
 中身は、ノモンハン、ミッドウェー、ガダルカナル、インパール、レイテ、沖縄という、代表的な作戦における失敗の本質を、日本軍の組織構造や性質から分析しよう、というもの。これを読むと、目標が曖昧で統一が取れず、方法は非現実的(異様に緻密な場合と、あまりもずさんな場合あり)、情報の流れは滞りがちで、意思決定は人間関係に左右されがち、上層部は現場の状況を把握しないし、現場は上層部の意思を理解できない……。何のことはない。今の日本の駄目な組織とおんなじである。
 何というか、いかに個々の兵士が優秀だろうが、勇猛だろうが、組織として駄目なものは駄目、ということなんだろうなあ(個々の社員は親切だけど、会社としては不親切の極み、ってなところもそういえばあるような……)。
 以前、NHKで似たようなテーマの番組をやっていたような気がするけど、これが元ネタだったんだ、と初めて気付いた。なるほど。

 なんだか、こういうビジネス系の本ばっかり読んでいたので、矢部史郎・山の手緑『無産大衆神髄』(河出書房新社, 2001)を読んだら心が洗われてしまった。爽快。
 もはや人間が人間を開発する(考えてみれば、多くのビジネス書がその目的で書かれていることがわかる)段階まで来てしまった資本主義に対抗するために、開発されないための対抗手段は……仕事しないで、ぶらぶらする。ぶらぶらしていると所得が小さくなるから、社会保障の充実を求める。あと、銭湯みたいな、低所得でも生活していけるためのインフラ(風呂付きの方が家賃が高いからね)を守る。でも、計画を作ったり、対案を出したりはしない。そうすると、開発の枠組みの中に組み込まれちゃうから。
 という感じの主張が展開されていたりする(いや、それだけじゃないんだけど)。これだけ読むとなんじゃそりゃ、もっと勤勉に働けー、となるかもしれないけど、世の中そんなに単純じゃないのだ。ってことは、この本を読むとわかるようなわからないような。でもなんとなくわかる。
 理屈はともかく、石原慎太郎を切り、宮台真司を切り、市民参加による決定プロセスを切り、ついでに某歴史教科書作っちゃえ運動も適当に切っちゃう。気持ちいい。でも、そういう分かりやすい気持ちよさを求めてしまうことが、「無産大衆」の(不可避な)不幸であることも、とてもよく分かってしまう。なんだか切ない。でも、面白いのだ。
 あ、あと、図書館関係者も必読。図書館が直面する問題についても鋭く切り込んでいる。こんな感じ。

 少し考えればわかることなんですが、利用者のすべてがあらかじめニーズを持っているわけではないですよね。利用者や利用ということが、「ニーズ」に還元できるほど、現実は単純ではない。ニーズのない利用者がいて、ボーッとしたりというだけの利用者があって、そういう人たちのためにこそ、図書館は開かれているべきだし、またそういう利用にこそ図書館の生産性が開かれている。それが図書館の条件だ、と言えると思うんです。
 検索システムの電子化と図書館のネットワーク化というのは、検索の効率を高めて、ニーズの多様化を支援する、そういう意味で、ある種の問題を解決する特権的な解決策です。しかし、そもそもの問題がニセの問題である以上、この解決策はニセの解決策です。それは、検索システム上の諸問題を決定的に解消するわけですが、しかし、検索システムに従属した図書館というのは、それはただの情報のゴミ溜めであって、図書館ではない。

 うーん、かっこいい。しかも正しく鋭い。
 一体、この著者は何者だ、と思って巻末の著者紹介を見ても、よくわかんない。まあ、模索舎とか聞いてピンときてしまう人は文句なしに買いでしょう。とりあえず、銭湯利用者協議会の活動には要注目ってことで。ああ、何だか意味不明。

2001年3月5日

 ここで書いた件、何だかんだいって合格してしまった(むう、こんなことなら書くんじゃなかったなあ。これじゃ、単なる自慢話である)。予想外の事態に、慌てて叩かれた穴を塞ごうと勉強を始めたけど、応急措置でどこまで対抗できるやら。
 っていうか、それ以前の問題として、コロコロ倒れているくせに、ちゃんと通えるのか、自分。

 というわけで、宿題二つ目に挑戦。でももう忘れかけている……。
 佐野眞一『誰が「本」を殺すのか』(プレジデント社, 2001)は、事実関係の間違いがちょこちょこ出てくるとか、引用の出典が明記されていないとこがちょこちょこあるとか、欠点は色々あるけど、出版を巡る危機的状況はよく分かる。
 書店、流通、版元、地方出版、編集者、図書館、書評、電子出版、という様々な角度から切り込んでいく、というのもうまい。インタビューで得た材料を縦横無尽に使っているだけあって、当事者の持っている危機感の強さ(あるいさ薄さ)がはっきり浮き出てくる仕掛けになっているところもさすがである(図書館関係者とか、例外ももちろんあるけど、もうボロボロって感じ)。
 特に、大手取次や紀伊國屋書店といった大手書店関係者のインタビューも面白いが、本について語る時に、セブン−イレブン・ジャパン会長のインタビューを取ってくる、というところがさすが。そうだよなあ、雑誌の流通といえば、もはやコンビニ抜きでは語れないもんなあ。
 本を巡るあらゆる領域でゆがみが限界点に達しようとしている、という時点のレポートとして、何だかんだいっても、本に感心のある人は必読。もちろん、そこには処方箋なんてないんだけど、何とかこの状況を突破しようとする人たちがいる、ということを知るだけでも、なんとなく元気が出る。その人たちの努力が実を結ぶのかどうか、なんて何の保証もないんだけど。
 ただ、再販制の問題について、新聞の存在について何も語られていないのはちょっと片手落ちかな、という気もする。たまたま、本郷美則『新聞が危ない』(文春新書, 2000)を読んだから、なんだけど。意図的に対象から外したのかな。
 あと、索引をPDFかCSVでプレジデント社のサイトで落とせる、というのは面白い試みかもしれない、と最初は思ったけど、実は本に索引を付けて出すことができなかった(日本の出版社ではよくあるように聞くけど)ことに対する妥協策なのでは、という気も。本にも紙でついてて、電子版も欲しい、というのが正直なところ。わがまま?


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