読書日記のページ

2000年6月

2000年6月22日

 うーむ、突然、強烈なめまいに襲われて世界がぐるぐるまわってしまい、数日間寝込んでしまった(まだちょっとフラフラしていたりする)。最初は、時々クラっとすることがあっただけだったんだけど、何か変だなと思っていたら、翌日には、もうぐるぐる回るは、吐き気はするはで大変な騒ぎ。必死の思いで病院に行ってみたところ、内耳の血流障害を起こしたらしい(ストレスとか過労が原因だったりするそうな)。そう思ってみると、数日前から肩こりがひどかったんだよなあ。あれが前兆だったのか。
 というわけで、ようやく回復してきて、新聞読んだり、軽い文章読んだりできるようになったところ。
 ちなみに、ひっくり返る直前に読んでいたのがトム・ピーターズ著・仁平和夫訳『トム・ピーターズのサラリーマン大逆襲作戦 1 ブランド人になれ!』(TBSブリタニカ, 2000)。いわゆるビジネス書、というやつだ。同じ著者・訳者の『トム・ピーターズのサラリーマン大逆襲作戦 2 セクシープロジェクトで差をつけろ!』(TBSブリタニカ, 2000)とセットで読んでいたのだけど、なんというか、書いていることは実は結構過激なんだけど、明るい。前向き。むき出しの知性ではなくて、ユーモアとセンスのオブラートに包んで出してくるあたりが、さすがである。こういうのを読んで、ビジネスランチやらなにやらでガンガン仕事して、アメリカ経済はこの世の春を謳歌しておるのか、としみじみしてしまう。
 ちなみに、仕事を徹底的に楽しんでやろう、そのためには中途半端は駄目だ、という部分だけをとりだして実行しようとすると、ぶっ倒れることがわかったので(ほんとに倒れてんじゃあまったく世話がない)、そこは参考にするのはやめることにした。体力や精神力の基礎がないと駄目だな、こりゃ。
 ただ、このシリーズの中心になるポイントは、いかにして携わっているプロジェクトに対する熱狂を維持するのか、という点にあって、そこはやはりすごいと思う。プロジェクトにおいて、どうすればメンバー(自分も含めて)の心に火をつけ、火を燃やし続けることができるのか、という問題について、『ブランド人…』の方は、プロジェクト・リーダーの側に焦点を当てて書いていて、『セクシープロジェクト…』の方は、プロジェクトの内容とチームに焦点を当てて書いている、という感じ。しかし、実際にこれを実践するには、相当、メンバーが議論慣れしている必要がある、という気も……。日本でそのまま応用するのは難しいのかなあ。うーん。
 ちなみに、著者は最初のMacintosh開発プロジェクトにも参加していたりするらしい。一度世界を変える経験をしてしまうと、やっぱり、もうその味が忘れられないんだろうなあ。

 話は変わるが、6月6日に紹介した加藤弘一『電脳社会の日本語』(文春新書, 2000)があんまり売れてなくて、裁断の憂き目にあったりしそう、という話が、中村正三郎さんのサイトに書いてあってびっくり。こういう本が売れないんじゃあ、いくらIT、ITと騒いだところで、底が知れるわな。というわけで、店頭にあるうちに買っておくことをお勧めしときます。

2000年6月13日

 ああ、また間が空いてしまった……。というわけで、これまたちょいと前に読んだ本になるのだけれど子安宣邦『方法としての江戸−−日本思想史と批判的視座』(ぺりかん社, 2000)について書いてみる。
 とにかく、恐ろしいほどに鋭い指摘が詰まった本だ、というのが読後の印象。思想史の人なので、当然ながら(?)文章は少しばかり晦渋だったりするが(どうしてこういう言い回しになるのかなあ……)、書いてあること自体は明快にして強烈。特に、日本が昔から一つの言語、一つの文化、一つの宗教、一つの精神、一つの歴史を共通して持つ、一つの国である、と信じている人には刺激が強いだろう。そうした一つの国、というものが作り上げられてきた歴史を、「江戸」という切り口から様々に照射してみせるのが、この本の最大の魅力だから。
 例えば、本居宣長がその批判者に対してみせる、あまりにも感情的な激しい反論を読み込むことから、朝鮮半島(「韓」、と本書では表現)からの、文化的、政治的影響を、宣長が徹底的に隠ぺいしようとしていた(そのことによって、初めて「やまとのくに」を浮かび上がらせることに成功した、ともいえる)ことを明らかにする。
 と、思いきや、今度は儒教を軸に、近代の日本の東洋思想研究が、西洋思想研究の対として成立したこと、そしてそのために必然的に、西洋から見た日本、の関係が、日本から見た東洋、という関係に反復されていくこと、さらにいうと、その反復が、新興の帝国、日本の思想的基盤を作っていったということが様々な確度から語られていく(例えば内藤湖南が近代シナ学の創設者であると同時に帝国主義者・植民地主義者であった、とか)。
 6月6日のところで書いた、表音文字優位の話は、竹越与三郎『二千五百年史』(よく知らないけど、当時の明治29年刊のベストセラーだったとのこと)を論じるところに出てくる。つまり、圧倒的優位にあったはずの中国文明に吸収同化されずに独自の文明を維持できたのは、表音文字であるカナを生みだしたからであり、こうした表音文字優位という特性はヨーロッパに通じている、という形で、日本文化の優位性を語っていることを論じているのだ(こうした思想が、様々な形で変奏されながら、JISコードにまで流れ込んでいっているのかもしれない、などと考えは始めると、何だか面白くてたまらない。本当はもっと妄想を膨らませたかったけれど、時間がないのでやめる)。
 さらには、歴史的カナ遣いを放逐して、音とカナとの統一を、帝国の域内全域に徹底しようとする官僚の話とか、国家的な統制の中で作られてきた「日本語」をあたかも自然的に作られた独自の文化的産物であるかのように語る日本語学者の批判的意識の欠如とか、日本語をめぐる議論も尽きない(特にある比較言語学者が書いた『縄文語の発見』という本を論じた部分は思わず笑ってしまう面白さ)。
 という話があったかと思うと、宮沢賢治について語りながら、東北の米作中心の農業形態が、実は国内植民地としての東北のあり方(単一農作物=プランテーション!)を示している、などという指摘をあっさりとしてみせたりする。
 女性史批判も強烈で、女性が置かれた状況だけに焦点を当てているために、結局、江戸時代の女性も結構自由で頑張っていた、という結論に落ち着いてしまって、本来「女性」という切り口から歴史を見ることで得られるはずの批判的視座をすっかり失ってしまっている、と切り捨てる。小谷野敦とはまったく異なる視点から、フェミニズム的な歴史研究の盲点を突いている、と思う。お見事。
 という具合で、いやはや、なんという懐の深さ。とても全部の論点を(たとえ要約でも)書いていたら切りがない。主に同じぺりかん社から出ていた『江戸の思想』に掲載された論文を中心に編まれた本なのだが、その他、講演原稿を元にしたものなど、素材は様々。だからこその多様性なのかもしれない。
 主著は別にあって、詳しくはそちらを参照、という部分が結構多いので、なんだか、長編大河小説の本篇を読まずに、番外編を集めた短編集だけを先に読んでいるような気分になる時もある(この思わせ振りなキャラクターはいったい何者? という感じ)。主著といえそうな、岩波から出ている『近代知のアルケオロジー』と『江戸思想史講義』は買おうかどうしようか以前悩んで結局買わなかった記憶があるので、ちょっと後悔しているところ。うーん、近所の図書館には……ないよなあ、こういう本は。リクエストで取り寄せかあ。
 ちなみに、岩波新書から1992年に出た『本居宣長』はどうやら既に絶版らしい。今日、探しに行った本屋で、岩波新書の解説目録を書店で見たらのってなかった。ちょっとショック。古本屋探すか…。

2000年6月6日

 これまた、ちょっと前に読んだ本なのだけれど、加藤弘一『電脳社会の日本語』(文春新書, 2000)は、日本語コード問題や、日本語文献の電子的な流通に関心のある人は必読なのでは。
 JISコード制定と改訂の歴史を、その背景も含めて論じたところなど、めちゃめちゃ面白い。漢字廃止論が背後にあっとはねぇ……(ちなみに、漢字廃止論には、表音文字と表意文字では表音文字の方がえらい、という思想が背景にあることが出てくるが、だからヨーロッパはアジアを席巻することができたのだし、日本には仮名という表音文字があるから、中国のようにはならなかったのだ、という話とつながって、昭和初期のファシズム思想と通底していた、というのは今読んでいる別の本に出てくる話だったりする。続きはまた今度)。
 ユニコード制定の背景やその後の展開など、あまり知らなかった話が分かりやすく展開されていて勉強になってしまった。しかし、単純に経済合理性とかの問題ではなくて、文化とか主義思想とか国家間の関係の問題と絡んでくる分、根深いよなあ。
 少なくともこの本と、著者が主宰するWebサイト「ほら貝」を見る限りでは、感情的なJIS&ユニコード反対論者ではないと思う。可能な限り、感情的な判断を行わずに、歴史的経緯を踏まえた上で論じようとしているところに、好感が持てる。まあ、その分、批判される側にとっては、嫌な存在かもしれない。
 上に出した「ほら貝」には、本書のサポートページがあり、訂正だけではなく、補遺や、図版目次、リンク集まで提供されている。そこらのCD-ROMなんぞより、よほどインタラクティブだなあ、としみじみ。

2000年6月2日

 これまた、しばらく前に読んだのだけど、新戸雅章『逆立ちしたフランケンシュタイン−−科学仕掛けの神秘主義』(筑摩書房, 2000)を。
 疑似科学や、神秘思想の歴史的展開を科学史や技術史の展開と絡めて論じることで、オカルトがなぜ「科学的」な説明を求めるのか、また、科学者がなぜ疑似科学にはまり込んでいくのかを明らかにしていく、という一冊。
 一話完結なんだけど、完全に切れるわけじゃなくて主題のしり取りのように話が続いていく、という感じの作りなので、とても読みやすい(文章自体も読みやすいし)。なんだか雑誌連載風。でもどこにも初出がない、ということは書き下ろしなのかなあ。どっかで連載してたなら、とても納得できるんだけど……。
 オウムの科学者たちのあり様から語り始めている、というとこからも明らかなように、地下鉄サリン事件を中心にした、一連のオウム関係事件への衝撃が、本書のバックボーンにある。その衝撃の意味を明らかにしようとして、超能力ブームや19世紀イギリスの心霊主義や、パリのメスメルへと筆を進め、オカルトに傾倒した科学者たちの姿や、逆に徹底したオカルト批判を展開したマジシャンの姿を描き、ついには、小説『フランケンシュタイン』の誕生から、科学によって切断されてしまった神秘を求める人々の欲求が、科学を絶対的に信奉する科学者たちを疑似科学に取り込んで行く構造が明らかにされていく。
 というのが主な筋なのだけれど、60年代のカウンター・カルチャーが、挫折(歌で世界は変わらなかった)を経て内省的なヒッピー・カルチャー、そして、ニューエイジに転化していった過程や、さらに商業化の波を受けて、ポップ・カルチャーへと流れ込んで行く系譜を辿る部分が、個人的には非常に面白かった。「一般にオタク文化はニューエイジやサブカルチャーがポップ化したものと見てよい」と一刀両断されてしまうと何だか身もふたも無い感じだが、でも、SFの持つ、「世界を変革したい」という欲望の起源(の一部)は、案外、このあたりにあるのかもしれない。
 もう一つ、SFがらみでいうと、オカルトと同時に本書で大きな主題となっているのが、「マッド・サイエンティスト」という存在。そもそも『フランケンシュタイン』もマッド・サイエンティストの物語であるわけだけれど、なぜ人はマッド・サイエンティストという存在を生みだしたのか、求めるのかという問いから、科学で全てを覆い尽くすことの持つ本質的な困難さを浮き彫りにしようとしている。
 編集ミス(図版を見よと書いているのに図版がないとか)もちょろっとあるけど、内容的には取っつきやすくて面白い(風邪ひいた頭で読んでも読めた)。オカルトが何で妙に科学的説明にこだわるのか、とか、「超魔術」がなぜ受けるのか、とか、そういう問題設定の上手さがお見事。
 それにしても、本当に書き下ろしなんだろうか……気になる。


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