読書日記のページ

2000年9月

2000年9月24日

 日本中がオリンピックで沸き返っていて、自分も御多分に洩れずTVを見れば「ニッポンがんばれー!」と、応援してしまうのだけれど、ちょっとどっかに引っかかりを感じていたりもするのだな。というわけで、網野善彦『「日本」とは何か』(講談社, 2000)を読んでみたりする。
 ちなみにこの本は、講談社の大型企画「日本の歴史」の第00巻だ。間違いではない。01巻の前に、00巻があるのだ。00巻から始まって25巻まで、基本的には時代順の構成なのだけれど、途中にこの00巻を含めて、5冊のテーマ巻が挟まる構成になっている。ちょっと面白い試みかもしれない。
 ここで、この本がまだ発売日前だ、ということに気付いた人がいたら通ですな。実は、ちょっとしたコネがあって……などということは全然なくて、たまたま、池袋の芳林堂書店で、出版社(講談社)と組んだ先行発売をやっていたところにぶつかったので入手できただけだったりする。で、発売日前に手に入ったとなると、やっぱり発売日前に読み終わっていないと何となく損な気がしたので慌てて読んだ、というのが真相。
 内容の概要は「日本の歴史」のホームページを見てもわかるが(このサイト、編集者の日誌みたいなものもあって、なかなか工夫されていて、案外面白い)、80年代、90年代の日本史学、考古学の成果を縦横に参照しながら、これまでの日本史の常識に対して次々と反論していくという、凄まじく論争的な本である。70歳過ぎてこのパワー。さすがだ。
 問題意識の根底には、国旗・国歌法の制定や、例の『国民の歴史』がある。より正確にいうと、戦後の日本史学が、ナショナルなものを支えるための学問であることを超えられなかった、ということに対する反省というべきか。特に、国旗・国歌法に対する批判は激しい。ちょっと引用してみよう。

この法律は、二月十一日という戦前の紀元節、神武天皇の即位の日というまったく架空の日を「建国記念の日」と定める国家の、国旗・国歌を法制化したのであり、いかに解釈を変えようと、これが戦前の日の丸・君が代と基本的に異なるものでないことは明白な事実である。このように虚偽に立脚した国歌を象徴し、讃えることを法の名の下で定めたのが、この国旗・国歌法であり、虚構の国を「愛する」ことなど私には不可能である。それゆえ、私はこの法に従うことを固く拒否する。

 とはいっても、こうした直接的な批判は、本書のほんの一部にしかすぎない。本題は、日本を均質的な一つの社会として描くことで切り捨てられてきた様々な要素を、80年代以降の研究成果をベースに拾い上げていくことで、これまでとは異なる、新しい日本史像を描き出そうとするところにある。多分、それこそが、ナショナリズム高揚の道具として利用されてしまうという事態から日本史学を解き放つ道筋だと、著者は考えているんじゃなかろうか(念のため書いておくと、マルクス主義歴史学も著者の批判の対象になっている。単線的な進歩史観だから)。
 具体的には、「日本」という国家には始まりがあった、という考えてみれば当たり前の話があったり、アイヌや琉球といった、現在、日本の国制の及んでいる範囲の中にも、「日本」ではなかったところが含まれてるし、日本の北限は初期には数世紀にもわたって変動していたことが語られたりする。
 かと思うと、東西の社会の大きな差異が現在に至っても残っていることや、いわゆる方言に見られるように、言語もまた日本国内で大きな差異を持っており、これを無理やりに均質的な一つの社会と見ることの強引さを明らかにしていく。と、同時に、均質である、という前提からスタートしているために、近畿地方の状況をそのままその他の地方に当てはめ、「遅れている」とか「貧しい」といった評価を下してきたことに対する批判と反省が述べられたりする。
 田畑も少なく貧しい山村、と見られていたところが、材木や炭の交易で巨額の富を築いていたり、水のみ百姓ばかりで貧しい漁村、と見られていたところが、実は、田畑を持たずに交易船を持っていて、交易によって大きな財を築いていたりというケースを、具体的な研究成果に即して紹介していく。そんなものは例外に過ぎない、という批判は、既に著者に対してなされているようだが、そうした批判に対しては、明快かつ論理的に(そして時に激しく)反論していく。そういう意味でも、非常に論争的な一冊だと思う。
 こうして描き出される日本像は、稲作中心・農業中心どころか、縄文時代から、オホーツク海、日本海、東シナ海等を通じた人と物の交流がなされ、海や山の産物とその交易が活発に行われると同時に、各地域がそれぞれの特色を持って、それぞれの時代状況に応じて多様な社会を築き上げていった、という感じで、確かに、ナショナリズムの高揚には役に立ちそうもない。むしろ、各地域の文化や歴史に焦点を当てることで、中央集権的な国家意識に真っ向から反することになるだろう。
 当然ながら、この一冊で日本史の全てが語られているわけがないし、著者もそんなことは考えていないだろう。全てをまとめ上げて、一本の筋道を組み立てるのではなく、様々な問題を投げかけることで、多様な問いと語りへの可能性を開こう、という意思に満ち満ちている。この問いを受け止める若い研究者がたくさんいて、しかも素人向けにもある程度書いてくれたりすると、面白くなるんだけどなあ。
 これが一冊目だとすると、後のシリーズも期待できそう。でも全部買うのは大変だよなあ。図書館で借りるか……。

2000年9月17日

 ちょっと時間がかかったけれど、ピーター・レイビー著,高田朔訳『大探検時代の博物学者たち』(河出書房新社, 2000)を読んだ。タイトルだけ見ると、欧米全体の話をしているように見えるけれども、実際には19世紀イギリスの博物学者・探検家を中心とした話だったりする。
 中心となるのは、ダーウィン、ジョセフ・フッカー、トマス・ハクスリー、ヘンリー・ウォルター・ベイツ、アルフレッド・ラッセル・ウォレスといった面々。探検家であり、同時に科学者でもあった人々の足跡を、その探検の過程を、探検記のような著作や手紙を使って追っていく、というのが本書の中心的な部分、ということになるのかな。
 面白いのは、財産や人脈に恵まれていたダーウィンやフッカーといった人々と、ほとんど徒手空拳で未開の奥地に分け入っていったベイツやウォレスらとの対照がみごとに描かれていること。当時の(資金や人脈に恵まれない)探検家/研究者が、標本を売ることでなんとか滞在や探検に必要な資金を得ていた、という話は、科学研究における研究費の問題の原型を見るようで興味深かったりする。
 その他にも、今まで知らなかったような(というか、私が不勉強で知らなかっただけ、という話かもしれないけど)探検家・博物学者たちの業績が、南米、アフリカ、中央アジア、東南アジアといった地域毎に語られると同時に、その探検/観察/採集/研究の成果が、進化論に結実し、社会全体に影響を及ぼしていった過程が、描かれている点もポイント。
 全体として、帝国主義的な役割や視線と、探検・博物学との関わり、という問題が強く意識されている。とはいっても、単純に、その帝国主義的な役割を批判するだけ、などという話ではないのでご安心を。
 むしろ、(ヨーロッパの人々にとっての)未開の地に入り込んで行った人々は、帝国主義的な視点や思想を抱え込みながらも、逆に帝国主義的な視線のあり方を浮かび上がらせ、やがてそれを変質させていった、というのが著者の結論。こういう話を、コンラッドの『闇の奥』なんかを引っ張り出しながら語るあたり、ぐっとくる。うーん、やっぱり、著者も影響を受けたという、エドワード・サイードを読みたくなってくるなあ。
 ちなみに、もともと著者は英文学の人らしい。どうも文学としての探検記、という視点も組み込まれているような気がする。
 あ、そういえば、マリアンヌ・ノース(キュー・ガーデンギャラリーがあるあのマリアンヌ・ノース)の伝記について日本語で読める文献って、比較的珍しいかも。そういう意味でも貴重な一冊。

 bk1でお勧め本になっていたので、ついつい注文して買ってしまったのが、玉村豊男『モバイル日記』(Takara酒生活研究所, 2000)。手書き派だった文章書きの人が、パソコンを手にしてからどう生活や仕事が変わったか、という話をエッセイと、日記を折り交ぜながら語る、という趣向。
 ……と思って読んでいると、何だか妙に酒についての蘊蓄話が妙に目に付く。何のことはない。実は「酒文ライブラリー」というTakara酒生活研究所が出しているシリーズの一冊なのだった……といことに半分以上読んでから気が付いた。我ながらどこをどう読んでいるのやら。
 正直言って、農園を営みつつ、絵を描き、エッセイを書くことを仕事に世界中を飛び回って旨い酒を飲む著者の語りを読んでいると、何かこう、むくむくとわき上がる嫉妬心が、純粋に書いてあることを楽しむことを邪魔してしまうのだった。うーん、ちょっとあんまりにも住む世界が違いすぎて、共感持てない……ううう、心が狭いぞ、自分。
 そういう部分を除けば、非常に示唆的な本だとは思う。……のだけれど、個人的には、今年の4月3日のとこで紹介した田淵純一『オジがパソコンを買うという暴挙』の方が、リアルタイムのドキュメントになっている分、インパクトが強い感じがする。『モバイル日記』は、後から回想して書いた、という点がどうしても弱いのと、著者自身が最初からいわゆる「普通のサラリーマン」とはかけ離れた仕事をしてしまっているために、どこがパソコンによって変わった部分なのか、今一つわかりにくいのがちょっと難点。パソコンによって何がどう変わってしまうのか、という部分では、実は、両方とも共通しているのだけれど……。あとは好みの問題かなあ。

2000年9月10日

 すっかり書き忘れていたけど、先日、相模原市立博物館で開催されていた「花を描き、花を知る――植物画の魅力」(会期:2000年7月20日〜9月3日)を見に行って来た。
 地方の博物館ということで、甘く見ていたのだけれど、大間違い。巨大展示スペース、というわけにはいかないけれど、結構、充実した展示内容でちょっと得した気分。江戸時代はあっさりと少なめにして、近代以降の日本を中心に絞り込んだのが成功に繋がったと見た。
 明治期を中心に、これまで知らなかった植物画家や図鑑(原画も結構あり)に触れることができたのは大収穫。特に加藤竹斎が伊藤圭介・賀来飛霞『東京大学小石川植物園草木図説』のために描いた原画が展示されていたのには驚いた。眼福眼福。
 ちなみに、同時期に千葉県立中央博物館でも、植物画関連の特別展(「植物画の世界――園芸植物とプラントハンター」(会期:2000年7月1日〜9月3日)。ヨーロッパ中心で最後に江戸ものも展示されていた模様)を開催していたらしいのだけれど、これは気が付いた時には遅すぎたので見に行けず。残念。

 随分前に読み終わっていたのだけれど、何となく感想を書くタイミングを逸してしまったのが、小谷野敦『八犬伝綺想』(ちくま学芸文庫, 2000)。著者の最初の著書を文庫化したものだ。
 言わずと知れた、曲亭馬琴の代表作、『南総里見八犬伝』を、様々な角度から読み解いていく、という本なのだが、とにかくその読み解き方がめちゃめゃ面白い(とはいっても、完全に理解したとは到底いえないんだけれども……)。
 衒学的といえば衒学的、ということになるのかもしれないけど、様々な文学理論を縦横無尽に応用しつつ、『白鯨』や『ハムレット』、『ハックルベリィ・フィンの冒険』との比較を折り交ぜながら、『八犬伝』の物語構造が次々解き明かされていく過程を(所々分からないところはすっ飛ばしながら……)追っかけていくのは結構快感。分からねえ奴は付いてこられなくて結構、という感じもなくはないけれど、完全に意味不明、というところはあんまりないと思う。そういう意味では、読みにくい、という感じは特にしなかった。ちゃんとあらすじの解説もあるので、なんとなく、『八犬伝』を読んだような気になれるところもお徳かも。
 結果的に『八犬伝』が、近代日本を幻視するかのような物語として読み直されてしまったところで、初めて、著者が常に「日本の近代」を問題にしてきていたことに気付いて、自分の鈍さに愕然としてしまった。どの本も、なんとなく問題意識に共感してしまうなあ、と思っていたら、そういうことだったのかな?
 表題作以外に、『八犬伝』関連の二つの論文を収録。表題作ほど「衒学的」ではないけれど、『八犬伝』が単純な勧善懲悪の物語ではないことを、別の角度から論じている。
 と、いいつつ実は一番面白いのはあとがきだったりする。最初の著書がほとんど無視されたことに対する恨み辛み(?)を語るあたりが素晴らしい。最後の一文も最高。さすがは上野千鶴子であり、さすがは小谷野敦である(もったいないから引用はしないでおこうっと……)。

2000年9月4日

 渡辺勝正『真相・杉原ビザ』(大正出版, 2000)をようやく読了。杉原千畝生誕100年を迎えた今年、やはり少しは勉強しておかねばならんと思い……というわけでは全然なかったりする。そもそも、今年が生誕100年だったとは知らなかったし(ほとんど世間で騒がれてない、というのがまた不思議な話ではある)。
 実は、今年の1月9日に『ユダヤ陰謀論の正体』について書いたのを著者の松浦寛先生が発見、メールをくださったのだ(悪いことはできないものである)。で、先生推薦の本の一冊が本書だったという次第。
 書くまでもないような気もするけれど、杉原千畝(1900-1986)という人は、ビザ給付資格を持たないユダヤ人難民に大量のビザを発行して、ナチスによる迫害から逃れる道を作った日本の外交官。本書は、晩年に杉原自身が書いたメモや、関係者の証言、大量の外交文書を駆使して、ビザ発行の経緯と意義を明らかにしようとしたもの。
 ……と、まとめるとちょっときれいすぎるか。付け加えるなら、最近、杉原によるビザの発行が、日本政府の命令に従っただけ、という議論によってその功績が割り引かれつつあるのだけれど、本書はその議論に対して真っ向から反論してみせている。そのあたりに関心のある人にとっては、むちゃくちゃ面白いだろう。
 正直いって、ルポルタージュ風で繰り返しの多い文体は回りくどいし、学術論文的な形式をとっていないために、どの部分がどの資料を根拠にしているのかよくわからないなど、欠点もある(多分、そういうところをこれから攻撃されるんだろうなあ。あ、ちなみに(詳細な)参考文献リストはちゃんとついているので念のため)。けれども、誰がいつどこにいて何をしていたのかを明確に整理することで、政府命令に従っただけ、という説の根拠を、次々突き崩していくあたりは、見事、の一言。時々刻々と変わっていた状況を無視して無理やり一般化することは、近代以降の歴史を考える時には特に致命傷になりうる、ということがよくわかる。
 あと、本筋とは関係ないのだけれど、著者は名うての切手コレクターらしく、国際的な切手コレクター人脈の片りんが伺えたりするのもまた面白いところ。
 個人的には、『受験と学生』という雑誌の大正9年4月号に杉原が書いた、外務省留学生試験合格について書いた手記を、著者が国立国会図書館に見に行ったところ、目次には線を引かれ、本文は切り取られていた、という話が心に残った。手がかりを破壊することで、過去を知ろうとする人の手段を奪っていくってのは、一種のテロだよなあ。

 ちなみに、この『真相・杉原ビザ』の最後の章に、杉原のイメージがいかに歪められてきているか、ということを論じた部分があって、その中で、政府命令説の根拠としてよく引き合いに出されるヒレル・レビン『千畝』(清水書院)について、その矛盾や間違いが徹底的に論じられている。
 どうやらこの『千畝』という本、なかなかのくせ者らしい。……ということがわかったのは、松原寛「捏造される杉原千畝像」『世界』679号(2000年9月)を読んだからだったりする(これまた松原先生からお知らせいただいてしまった。ありがとうございました)。
 ここでは、『千畝』の原著と翻訳を比較することで、もともと問題のある原著がさらに歪められていることが明らかにされている。翻訳で自分たちに都合のいい改変を加えるという荒業(ちなみに歴史修正主義者が多用する同様のやり口は『ユダヤ陰謀論の正体』でも紹介されている)には、ほとほと関心する。アメリカの学者、という権威に弱い日本人の心理を見事に突いているあたりもお見事。
 が、この「捏造される…」での一番のポイントは、「新しい歴史教科書をつくる会」の賛同者(その代表選手として取り上げられるのは、もちろん小林よしのり)が杉原ビザについて触れる時の準拠枠を分析しているところだろう。何故、杉原ビザが日本政府の命によるものでなければならないのかが、よくわかる。
 しかし、これでまた小林よしのりによる松原寛批判が出てきそうだなあ。

 と、思ったところで、小林よしのり側の議論も読んでおかないと、何だか片手落ちな気分がしてきたので(こうやって読む本が増えていく……)、しばらく読んでいなかった『新・ゴーマニズム宣言』(小学館)を6巻、7巻と読んでみた。ちょうど、『戦争論』の前後の時期だ。
 久しぶりに読んでみて思ったけど、やっばり上手いなあ。例えば、7巻83章では、1998年10月31日の「朝まで生テレビ」の状況が、著者の視点で語られていく。同じ番組について触れている宮崎哲弥『新世紀の美徳』(朝日新聞社, 2000)と比べてみるとわかるが、同じ場面を描いたものとは思えないくらい印象が違う。書き手の視点によって、同じ状況がまるで違うものとして描き出される、という好例ではあるけれども、もっと単純に、どっちが読者を自分の土俵に引っ張りこむ力があるかといえば、それは明らかに小林よしのりの方だろう。自称天才は伊達ではない。
 が、その力を、いわゆる言論界や学界の住人に攻撃的に向けた時の威力の大きさについて考えると、ちょっと考え込んでしまう。例えば、『新ゴー宣』で宮崎哲弥の名前を知った人が、宮崎哲弥の著書を手に取るか、といえば、それはちょっと考えにくい。むしろ、『新ゴー宣』を素直に読んでいれば、持つのは感情的な反感であって、反感を持っている書き手の本をわざわざ買う人が(その相手をさらに批判しようとする人を除けば)あんまりいるとは思えない。
 もちろん、本当に素直に『新ゴー宣』を読んでいれば、この作品が良くも悪くも著者自身による著者自身のための(渾身の)プロパガンダであり、そうでしかないことは、前提のはずなのだが、もはや、単なるプロパガンダだと思って読む人がどれだけいるのかは心もとない。しかも、7巻の段階で、著者の側も、単なるプロパガンダでおさめるつもりがなくなってきているようだ。

 ちなみに『週刊読書人』2352号(2000年9月8日)に、堀茂樹「ポピュリズムの彼方にあるもの」、と題した『ユダヤ陰謀論の正体』の書評、兼、小林よしのり批判が掲載されているが(ちなみに著者の堀茂樹という人は『「知」の欺瞞』の訳者の一人……というのも松原先生情報で知ったのだったりする)、この批判がどれだけ的を射たものであっても(実際、まっとうな批判だと思う)、ほとんど『新ゴー宣』読者には届かないだろうし、届いたとしても、既に小林よしのりによってまともな扱いをする必要がないと決めつけられた人が書いた本をほめる書評など、最初から相手にはしないだろう。そういう意味では、小林よしのり批判は、どのメディアで行なっても空しい(もちろん、『週刊読書人』を読む層にとっては意味はあるのだけれど)。『新ゴー宣』というメディアは、そのくらい強力な力を持っているのではないかと思う。
 凡庸な書き手が同じことをしたところで、何の力も持ち得なかったのだろうけれど、相応の力の持ち主がその全力を注いだことで、『新ゴー宣』は一つの権力になってしまった、ということか(特に本が売れなくなってきている昨今ではなおさらその「権力」は強力になってしまっているだろう)。そこで批判されたものは、『新ゴー宣』読者から反感を買うことになり、評価されたものは好感を得ることになる。特に若年層の支持の大きさを考えればこの「権力」の影響力の大きさは、ちょっと無視できない。だからこそ、批判するだけの意味があるのだけれど、その批判を受け止めるベき『新ゴー宣』の読者は、『新ゴー宣』というフィルターを通じて批判に対する価値判断を行ってしまう……うーん。
 なんというか、反権力を標榜する(?)『噂の真相』が早い時期から小林よしのり攻撃をしかけていたことは、ある意味で見識があった、というべきかもしれない(本能的反応?)。
 それにしても、マンガには人を動かす力がある、ということがこんな形で示されてしまうとは。アメリカが、コミックに徹底的な規制を被せて、その可能性の芽を早めに潰した、というのは、判断として正しかった……などと言われる時がこないと良いのだけれど。

2000年9月1日

 スティーブ・フラー著,小林傅司他訳『科学が問われている−ソーシャル・エピステモロジー』(産業図書, 2000)をちょっと前に読んだのでメモ書き。それにしても、いわゆる「サイエンス・ウォーズ」(そんなものはない、とは言われても、言葉としては便利なんだよなあ……)関連本の中で、何故だかほとんど無視されてるような気がするのは何でだろう。
 もちろん、本書は「サイエンス・ウォーズ」便乗本などではない。ただ、日本語版への序文には、「サイエンス・ウォーズ」に触れた部分がある。そんなものは一種の宣伝用のキャッチコピーに過ぎず実体がない、と切り捨てるわけでも、便乗して理系と文系の間の緊張関係を過大に論じるわけでもなく、「科学」という営為をどう捉え、そして今後にどう生かしていくのか、という文脈で、その経緯(いわゆる「ソーカル事件」はその一エピソードとして語られるが、過大に意味付けされることはない)と意義を語っているあたりに、この著者のスタンスがうかがえて、好感を持ってしまった。
 もともとは、社会科学専攻の学部学生に、教科書ではちょっとしか触れられていないような(でも刺激的な)テーマについて紹介するためのシリーズの一冊として書かれたそうで、著者の著作の中では、比較的初心者向け、という感じらしい。
 とはいっても、書かれている内容は、非常に広範囲に及んでいる。例えば、方法論も歴史も異なる様々な学問が自然科学の名の下にあたかも統一的な実体として存在しているように語られているのは何故か。あるいは、科学が社会の中で権威を持ち、独自の活動領域として存在しえている、という事実を考えるときに、(その分野の専門家ではない)一般の人たちに科学がどのように普及していったのか(いるのか)、を考える必要があるのではないか。科学をめぐって、イスラムと日本という比較対象を、西洋の側から、あるいは対象の側から眺めることで、見えてくるものは何か。
 ……などなど、様々な問題提起と、それに対する著者の考え方の提示が、いろいろな技を駆使して次から次へと展開される。
 特に面白いのは「迷信としての科学:失われた火星年代記」と題された第4章。火星人による調査報告書を読み説く、という形式を借りて、科学を考える際につきまとう迷信を一つ一つ批判していく(火星人による文化人類学的、あるいは社会学的考察、という形式を取っているあたり、二重三重にパロディが仕組まれているような気もするんだけど、そこまではちょっと私には読みきる力はないなあ……)。
 ちなみに、科学的真理は社会的に作られたものに過ぎない、などという議論にはならないので、そこはご安心を。むしろ、論点は、科学がいくつかの転回点を経て(例えばScience Citation Indexによる業績評価の確立など)科学がかつて持っていたはずの活力や批判的な力が失われてきているのではないか、という点にある(と思う)。
 その視点から、科学が抱え込んでいるある種の傲慢さに対する批判なども出てくる。例えば、乗客が飛行機に安心して乗ることができるのは、その乗客に飛行機が飛ぶ原理に関する科学的知識があるからではなく、飛行機の運行を可能にしている多様な人的・社会的・技術的システムに対する信頼があるからだ、と指摘したりする。単純な科学批判でも、科学礼賛でもない、という意味でも、好感を持ってしまうなあ。
 ただし、訳者が苦労したと書いているだけあって、表現は結構、一筋縄ではいかない(何しろ火星人を持ち出すくらいだし)。そこがまた面白いんだけど。
 あと、明治日本が西洋世界に与えたインパクトについて論じている部分(科学技術は西洋の思想的伝統がないところには根づかない、という理論に対する反証となった)が刺激的。日本の科学技術研究の問題は西洋の歴史や思想的伝統に対する理解が欠けていることにある、などとよく言われたりするけど、それなのに結構うまくいってしまったことに対して、西洋側が受けたショックの大きさが浮き彫りにされている。やっぱり、片側からだけで見ていたのでは、見えないことが多いなあ。


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