読書日記のページ

2000年4月

2000年4月23日

 3月26日に行なわれたSTS Network Japanの春のシンポジウム「エネルギー政策をリスク論から考える−JCO 臨界事故の再検証と「不安」の評価−」の会場で買った飯田哲也『北欧のエネルギーデモクラシー』(新評論, 2000)をちょっと前に読了……してたんだけど書く気力がなかったので前回の更新から間が開いてしまった。
 この本、スウェーデンとデンマークを中心とした、北欧の脱化石燃料、脱原発、省エネルギーを目指したエネルギー政策の歴史と現状をレポートしたもの。風力やバイオマスを中心とした再生可能なエネルギーへの転換がここまで進んでいることに驚かされると同時に、原発の増設には反対だが、原発の即時停止はすべきではない、といった、徹底したリアリズムにも感心してしまう(他人事のように感心している場合ではないのかもしれんが)。と、同時に、国家的なレベル、さらには欧州全体という国際的な枠組みの中で、税制や風力発電の設置許可の仕組みなど、エネルギー源を転換しようとする様々な制度的な仕組みの実験場にもなっているあたり、単なる理想主義的な議論などもはや問題にならないレベルにまで、あっちの連中が進んでいってしまっていることがわかる。
 しかも、そうした仕組みを作り上げるための民主的な意思決定の仕組みもまた、徹底的に追及されているのがまたすごい。いやはや、民主主義ってのは大変である。これだけのコストと時間をかけてでも、コンセンサスを構築しようという意思、というのはどこからくるのだろう。
 シンポジウム会場に来ていた東海村在住の方々が語っていた、マスコミの報道とは異なり、地元の人々の大多数は不安や反発は別に感じていない、という話と比較すると、あまりの彼我の差(報道によって二項対立ばかりが強調され、地元住民の主体性そのものは問題にすらされない、という点で)に眩暈がしてしまうが、キャッチアップの得意な日本人としては、こういう目指す目標がある方がありがたいのかもしれない。
 と思いつつも、シンポジウム自体の、誰もが自分の意見を一方的に主張するだけに終わってしまったような展開を思うと、説得という一方通行の手続きではなく、合意形成という対等で相互的なやりとりのしかたを身に付けるのは、並大抵のことではないんだろうなあ、としみじみ思ったりもして……。

 これも大分前に読み終わっていたのだけれど、大修館書店から出ている雑誌『しにか』2000年3月号(11巻3号)の特集「日本の辞書の歩み――最古の辞書から『言海』まで」がちょっと面白かった。最近、『しにか』はいい特集が多いような気がする。ただ、一つ一つの記事(というか論文というか……)が、帯に短し襷に長し、という感じで、専門的な話としては突っ込みが物足りない気がするし、素人向けの読物としては硬すぎる、という印象。でも、佐藤貴裕「節用集の世界――典型と逸脱」の、節用集のバリエーションの歴史的展開の分析とか、勝又基「江戸の百科事典を読む――『訓蒙図彙』の変遷」の、『訓蒙図彙』の各版における変化と歴史的背景の分析、犬飼守薫「近代的国語辞典の誕生」における、『言海』誕生のドラマなど、読みどころも多し。どれももうちょっと長くても……という感じなのが惜しいけど。
 ちなみに今発売中の5月号の特集は「中国の大発明――歴史を変えたメイド・イン・チャイナ」。まだ読んでないけど、面白そう。しかも、連載第2回の武田雅哉「少年少女山海画報」の今回のサブタイトルは「ガーンズバック連続体」ときたもんである。うーむ、不思議な雑誌だ……。

2000年4月12日

 名前は知っていたし、断片的に短いものを読んだことはあったんだけど、ちゃんとまとめて読んだのは初めて。というわけで、森銑三『増補 新橋の狸先生 私の近世畸人伝』(岩波文庫, 1999)をやっと読んだ。
 森銑三といっても知らない人はまるで知らないかもしれないが、『日本古書通信』とか読んじゃう人は誰もがみんな知っている……と思う。知ってるはずだ。うん。表紙には「書誌学、近世文学、人物研究に多大な業績を遺した森銑三(1895-1985)」と紹介されていたりする。全然関係ないけど、岩波文庫のこの表紙もすっかり定着したよなあ。今となってはパラフィン紙がかぶさっていたころが懐かしかったりして(この紙カバーが付くようになって、もう10年は経っているんじゃないかな?)。
 さて、この本、江戸時代中期(後期かな? 西暦だと18世紀末、ってところ)のベストセラー、伴蒿蹊(ばん・こうけい)の『近世畸人伝』に取り上げられなかった「畸人」たちの足跡を明らかにするとともに、『近世畸人伝』に取り上げられた「畸人」たちのそれまで知られていなかった事蹟を記している。
 とにかく、その記述の方法がすごい。江戸期以降の様々な資料を渉猟して、その人に関係するところをぬきだし、ガンガン引用する。よく知られているものや翻刻がすでにされて流布しているものなんかは、要約ですますけど、そうでない新出資料や、これまで知られていなかった記述なんかがあると、対象となる部分を、全部引用してきてしまう。
 と、書くと、なんだよただの切り張りじゃねーか、と思うかもしれないけれどさにあらず。ある人の日記の中にちょろっと出てきたとか、こっちの資料ではこうあるけど、あっちの資料では違うように書かれている、というような断片を積み重ねて、少しずつ人物像を積み上げていくのだ。実はこの人はあの人と知り合いだったとか、そういうことも断片的な記述から解き明かされていくところが、ちょっと刺激的。
 もちろん、今のように(ちなみにこの本の最初の版は1942年刊)『国書総目録』のようなツールもなかったし、フィルム撮影とか、そこからの紙焼きとか、おそらくほとんどできなかっただろう。様々な人脈と、記憶力を武器に資料を探し出し、その中から、後で使えそうな部分を徹底的に書き写し、そして書き写した覚えを必要に応じて縦横無尽に原稿に使用したわけだ。
 今なら、データベースを使えば簡単にできることかもしれないが、全て頭に入っているからこそ(でも、うっかり忘れてて後で発見、という話も何回か出てくるんだけど)、こういう厚味のある記述ができるんだろうなあ。
 取り上げられている個々の人物について書くのはちょいとしんどいので書かないが(書き方が書き方なので要約できん)、どの人物も、ある一つのことにはめちゃくちゃに優れているけど、他のことには全然頓着しなかったり、あるいは異常なほどの執着を見せたり、変な人ばっかりだ。でも、どの人も、金とか、出世とか、名誉とか、そういうものとは無縁だし関心もない。自分の生きたいように生きた人ばっかりで、そういう人たちを、当時の人は結構みんな慕ったりしていたりする様子が見えたりするのが、なんともいえぬ味わい。封建制の枠の中での逸脱のあり方、という問題がほの見える気もするんだけど、そんなことよりも、著者の考える、愛すべき人物、というもののあり方が読んでいるうちに浮かんでくるのが魅力かも。
 それにしても、漢文を読み下してくれているおかげで(ありがとう! 岩波文庫!)かなり分かりやすくなっているはずなのに、意味不明のフレーズ多数。戦後、いかに多くの語彙が失われたのかをひしひしと感じる……って、私がもの知らずなだけか?

2000年4月3日

 『現代思想のキーワード』(『現代思想』2000年2月臨時増刊(vol.28 no.3))の「科学論/生命論」のとこだけ拾い読み。
 この部分は、金森修の総論と「科学的知識の社会構成主義」、柿原泰「STS」、平川秀幸「サイエンス・ウォーズ」、高橋さきの「フェミニズム科学」、小松美彦「死」、松原洋子「優生学」で構成されている。あと、巻末の対談、野家啓一+金森修「サイエンス・スタディーズ1950〜2000」もあり。
 総括と前半の3論文、そして巻末の対談は、とりあえず、「科学知識の社会学」(Sociology of Scientific Knowledge, SSK)と呼ばれる科学論の一(大?)潮流を概観するのに便利。勉強になるなあ。巻末の対談では、モード論には批判的だったりするところが面白い。なるほど、ネオリベラリズム的な政治体制に適合的ね。そういう文脈で読むこともできるわけか。SSK(あるいはScience, Technology and Society: STS)自身がその社会的文脈を問われなければならない、ということなんだろうなあ。
 全体としては、ソーカル事件に代表されるいわゆる「サイエンス・ウォーズ」を踏まえた上で、それでもなお、科学を社会的文脈の中に位置づけていく意味はあるし、行きすぎもあったにせよ、70年代以降の科学社会学的研究にはそれ相応の意味があった、というのが総括、になるのかな? その成果を今の日本社会の中で生かす道があるのかどうか、というのが問われている、ということか。

 というわけで、科学技術(研究)は社会的な価値とは中立だ、という話は、もはや墓に入ったお話なんだけど、それを実感するのは案外難しい。ただ、科学技術の成果が製品として現れてくれば話は簡単。例えば、パーソナル・コンピュータという製品は、確実にある思想性を持っていて、その製品を使う人の側を何らかの形で変えてしまう。
 そのことを見事なまでに描き出してみせたのが、田淵純一『オジがパソコンを買うという暴挙』(アスキー出版局, 2000)なのだと思っていたりする。
 『マックパワー』に連載されている(現在も継続中)「私を初心者とか、ビギナーと呼ばないでいただきたい!」の(祝!)単行本化である。いや、もう爆笑の嵐。4分の3以上は連載で読んでいたので、読むのは2回目の部分が結構あったはずなのだが、電車の中で読んでいて笑いをこらえるのが苦しい苦しい。きっと変な奴だと思われていたんでしょうな、って文体がうつっちゃったよ。いかんいかん。
 基本的には、パソコン何するものぞ、というおじさんが、マックを買って使っているうちにその魅力にコロっといかれてしまう、という話なのだが、その変化の過程が克明に(おもしろおかしく)ドキュメントされているところが凄い。著者だけではない。家庭の中にマックが入り込むことで、家族もまた、変貌していく。著者本人は編集者として勤める出版社の中でDTP化の急先鋒となり、ついには会社をやめて独立してしまう。専業主婦だった妻は、再び働き始め、ついには雇われ社長に。そして娘は留学を目指す。この内容だ。並の著者ならば、感動のドキュメントに仕立て上げるだろう。けれども、著者はあくまで日常的視点を忘れないし、読者を笑わせることを忘れない。読者は、ゲラゲラ笑っている内に読み進めてしまい、ふと気が付いて、著者がスタートした地点と現在との落差に愕然とするのだ。
 多分、パソコンを日常的に(家でも会社でも)普通に使っている人が、多かれ少なかれ通ってきた過程が、ここには描かれているのだと思う。使えるようになってしまえば、忘れてしまうことが、ここには見事なまでに描き出され、残されている。だから、ゲラゲラ笑っている自分が笑っている対象は、結局、自分自身の過去の姿だったり、未来の姿だったりするのだ。おかしいからといって、ただ笑っていてはいけない……のだけど、やっぱり笑ってしまうのだった。
 願わくは、せめてもう一冊単行本が出るまで、連載が続きますことを。

2000年4月2日

 ううむ、とうとう花粉症になってしまった。噂に違わず、こりゃしんどいしめんどい。これから毎年これにつき合わねばならんとは……。

 という話はどうでもよいが、なんだか読んでる漫画が続編だらけになっている今日このごろだったりする。
 まずば大谷博子『由似、風のなかで』(集英社ユーコミックス, 2000)。続編が『YOU』に掲載されていることは知ってはいたが、読むのは単行本になった今回が初めてである。さすがに(多少今風の線にはなっているけど)絵柄的な古さは否めないが、『由似へ…』(集英社文庫(コミック版))と、なんというか、読んだときの感触が変わらないというのが凄い。時代も抱える問題も、まるで変わっているというのに、この前向きさは何なのだろう。キャラクターの強さだけじゃなくて、作者の強さ、というのも何だか感じてしまった。ただ、ストレートな続編が出てしまったことで、成長物語として完結していた前作の余韻はちょっと薄まる感じがしなくもないかな?

 もう一つは塩森恵子『希林館通りII』(集英社, 2000)
 おいおい、その年齢でそのルックスは反則だろう、という気もしなくもないが、

「無理におばさんくさくしたヒロイン描いて、どこが楽しいのよ!!」

と、作者御自らに書かれてしまっては、何も文句は御座いません。はい。
 ストレートな続編、というよりは、あくまで後日譚として描かれているあたり、前作のその後の物語を求める人には物足りないかもしれないけど、キャラクターの年輪の重ね方の手の一つってことで。これはこれで味があっていいと思う。
 個人的には新登場の男性キャラクター陣がいい感じ。息子もいいけど、特に独身でちょいと気弱な歯医者の30男がいい。こういうキャラクターが、大人の女の恋愛対象として描かれちゃうのか……という意味で結構しみじみしてしまうし。その一方で渋い中年になった編集長をちょろっと出すあたり、視野の広げ方と夢の見せ方のバランスの取り方がうまいんだろうなあ。作者の底力をひしひしと感じる。

 あと一つは、純粋な続編とはいえないかもしれないけど、一応、「アンドロイドはミスティー・プルーの夢をみるか?」の設定を引き継いでいるってことで、川原泉『ブレーメンII』(白泉社ジェッツコミックス, 2000)も仲間に入れておこっと。
 なんちゅーか、もう、SFである。そりゅもうバリバリに。知性化された動物たちに、初期の宇宙開発で実験体として活躍した動物たちのことを語るあたりは涙なしでは読めん。ううう、泣ける。といいつつ基本的には、あの川原泉そのまんまではあるので(絵柄はちょっと変わったけど)、SFが初めてでも安心安心。
 まあそれは置いておいて、なんとなく、萩尾望都のSFものへのオマージュのような気がするのは何故だろう。各話の頭に入っている扉絵のせいか? うーん……単に天然の密室(?)の宇宙船で事件が起こるから、そんな気がするだけなのか……。


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