読書日記のページ

2000年1月

2000年1月29日

 いやー、なんつーか、何を今更と言われそうな気もするが、藤田貴美『SIMAVARA』(ソニー・マガジンズコミックス)は出るは、紫堂恭子『決定版ブルー・インフェリア』(角川書店あすかコミックスDX)は出るは、長生きはするものである。
 前者は1993年から94年にかけて、『花とゆめ』で連載されていたのだが、何故かは知らねどコミックス化されないまま、幻の傑作と化していた。今回、部分的に改稿されて(といってもどこがどう直っているのか、連載当時のものをあんまし覚えていない私にはよくわからないのだが)ついに単行本化された、というわけだ。個人的には、この前後の藤田貴美の短編の方が好きなんだけど……でもまあ、一番とんがっていたころ(だと私は思う。まあだから『花とゆめ』からははみ出しちゃったんだろうなあ、とも思うけど)の藤田貴美の作品が読めるようになったのはうれしい。
 今読み返してみると、歴史もの(島原の乱が題材)だし、殺すものと殺されるものの関係、とか、歴史の大きな力の中で抗う人、みたいなものを描いているあたり、ここから『花と狼の帝国』までの距離はあとちょっと、という感じもする。作者にとってはターニングポイントになった作品かも。
 後者は1994年に最初に単行本化、と書いてあるから連載もその時期か。潮出版社の……えーっと、なんていう雑誌だっけ。それに連載されていたのだが、何故かは知らねど連載は中断。未完の傑作と化していた。それが今回、未完だった後半部分を描き下ろしで完結させる、という趣向。『SIMAVARA』もそうだけど、5年間待った読者も読者だが、作者もよくぞ粘った。えらい。さて、『七つの黄金郷』の轍は踏まずに完結できるか。描き下ろし部分が刊行される、ここからが見物。

 清水一嘉『イギリス近代出版の諸相――コーヒー・ハウスから書評まで』(世界思想社, 1999)を読んだ。
 サブタイトルに出てくるコーヒー・ハウスの話とか、イギリスにおける書評の話(Times Literary Supplementの話とかが出てくる)とか、出版史そのものというよりは、その周辺的な様々な事象を紹介したエッセイ集、という感じ。
 ヴァニティ・パブリッシングと呼ばれる個人出版の裏側の話(あなたの原稿を出版します、といいつつ費用を全部著者に持たせて、その上宣伝費とかも上乗せしていって、どんどんふんだくっていく悪徳業者が多数いる、という話)とか、ちょっと他では読めない話もあって勉強になってしまった。
 ただ、著者の方針(できるだけ小難しい印象を与えたくない、とのこと)とはいえ、人名や書名の原綴がどこにもない、ってのはどうなのかなあ。元ネタになったであろう、先行研究についての言及もほとんどないし……。なんとなく、入り口までは入りやすいけど、もう一歩入り込もうとすると突然大きな壁が……、という感じもなくはない。といっても、とりあえずは、入り口より先に入るわけでもないんだから文句をいう筋合いではないんだけど。
 一番面白かったのは、ヴァージニア・ウルフとレナード・ウルフの夫婦が始めた個人出版社、ホガース・プレスの話。最初は一度に二面しか刷れない手引き印刷機を買い込んできたことろからスタートして、独立した出版社として周辺の優れた文学者たちの格好の発表の場に成長していく過程が描かれている。
 特に、夢中になって自分の作品の活字を組むヴァージニアの話とか、ここにも活字に憑かれた人が……って感じでぐっとくる。創作の緊張感でぼろぼろになった心にとって、格好の気晴らしにもなった、という話なのだけれど、単純に楽しかったんだろうなあ。うんうん。
 書評の話も、単なる本の評価、というよりも、本の宣伝戦略の中に組み込まれている、というあたりを明確に指摘していて、なるほど、というところ。単純に欧米では書評が盛んで、と羨ましがるだけではだめなのかもしれない。

2000年1月9日

 唐突だが、やはり、親指シフトはよい。
 実は今年に入ってからの更新は、Macではなくて、某富士通の親指シフトモバイルマシンで書いているのだが、手首にかかる負担とかが圧倒的に小さい。職場ではしょーがないので、ローマ字入力をしているのだが、どうしても右手首に負担がかかるんだよなあ。はっ! もしかして、親指シフトが普及しなかったのは日本人の生産性を上げないようにするための誰かの陰謀なのでは……。
 などと馬鹿なことをいっていると、いつのまにやら恐怖のトンデモ世界につれこまれちゃうぞ、というのが、松浦寛『ユダヤ陰謀論の正体』(ちくま新書, 1999)を読むとよくわかる。
 この本、何だかふと気づくと(80年代後半かららしいが)書店ででかい顔をして棚を占拠するようになっているユダヤ陰謀論本が、どのようにして生み出されてくるのかを解きあかしたものだ。国際的な極右(&極左)宣伝屋たちのネットワークの構造や、仲間うちの著作ですら平気で改竄してしまう、笑っちゃうほど壮絶な翻訳・引用のテクニックの数々を、明らかにしている。
 いやはや、すごいよこりゃ。部分否定を全否定にしちゃうくらいは朝飯前、意味をまるっきりひっくり返しちゃったり平気でやっちゃう。こりゃ、議論にならんわなあ。
 それにしても、ああいうものを本気で読んでいると、いつのまにやら過激なナショナリストの論理に組み込まれてしまう、とは。たかがトンデモされどトンデモ。恐るべし、ユダヤ陰謀論である。ただの馬鹿話だと思ってたらそんなことはなかったのね。背景に極右思想があるってことくらい、考えてみれば当然といやあ当然なんだけど、これだけ具体的に説明されると、なるほど、という感じである。
 『新ゴーマニズム宣言』を題材にして、歴史修正論者の論理がどのようなものかを説明したり、旧『ゴーマニズム宣言』をとっかかりに、例のマルコポーロ事件へと話を進めたりするあたりもなかなか。『トンデモ本の世界』も参考文献として活用しているあたり、単なるアカデミズムの枠の中だけでこの問題を語っても意味がない、という著者の認識がほのみえる気がする。
 なんか、トンデモとつきあうには、と学会のように笑い飛ばすか、この著者のように、研究対象として突き放すか、どちらかしかないんだろうなあ、という気がとてもした。相手と議論しようとしたとたん、まっとうな議論を展開しようとする側が、必ず馬鹿をみるようになっている。相手を言い負かすためなら、手段を選ばない世界でものを書き続け、語り続ける、って人がいるんだなあ。なんだか不思議。もっと不思議なのは、そういう人を「えらい先生」って、結構みんな信じているってことだけど。
 あと、面白いのは、ユダヤ陰謀論の背景には、ナショナリズムがあるわけだけども、その現れ方は、インターナショナルである、という指摘。日本を憂う人が頼るのが、欧米のナショナリストたちの著作である、というのはなんだかなあ、という感じである。
 巻末の参考文献も充実。研究対象と研究書がごっちゃになっているが、研究書には一言コメントがついてて一種のブックガイドとしても使えるところがまた便利。トンデモ本の背景をより深く知りたい人は、必読の一冊、というところか。

2000年1月3

 何だかえらく長い間更新していなかったような気が……って、気のせいにしてはいかんな。反省。
 何はともあれ、明けましておめでとうございます。クリスマスにあった某イベントにも原稿全然書いてないし、今年はちょいと悔い改めなければとつらつら思う年明けでございますですよ。はい。
 それはともかく、年末から年始にかけて、久々に本を読む時間がまとまってとれたので、一応メモ書きしておくことに。まあ、日記なんだから(って全然書いてないんだけど)、適当でいいっていやーいいんだけど、久々に書くと緊張するな。いかん。

 てなわけで、年末に読んでいたのが、小谷野敦『江戸幻想批判−−「江戸の性愛」礼賛論を撃つ』(新曜社, 1999)である。
 帯に「論争の書、第三弾」などとあるように、それなりに攻撃的。が、「もてない男」論を展開するときに比べるとさすがに迫力がない、というか情念の爆発がないような感じがしてしまうのだな。
 それでも、特にフェミニズム論者の間に妙に広がっている、江戸時代は性的に開放された自由な社会であった、という幻想を叩きのめそうという意気やよし。人身売買が基盤にある遊廓文化を安易に礼賛してしまうことの危険さを明確に指摘していて、ふむふむと思わせる。
 そうそう、忘れちゃいけない。佐伯順子(特に『遊女の文化史』(中公親書))に対する批判は執拗で、読んでてちょっとドキドキした。いや、別に変なことが書いてあるわけではなくて、先行研究や時代的な変化を(意図的に?)無視して、強引に中世の遊女と近世の遊女を同一視してしまうということを批判しているだけなのだけれど(そしてそれを誰も批判しない、ということも。ところで、佐伯順子の裏にいる大物って誰なんだろ?)、何となく繰り返し執拗に批判されると(雑誌掲載論文をまとめた本なので論旨が重なっているだけなんだけどね)、ちょっとだけ、情念みたいなものを感じてしまうのだな。もちろんそれは、こちらの読み込み過ぎなんだろうけど。
 後半の歌舞伎論は、正直いってよくわからず。ただ、近世文化全体に対する批判を、明治からこっちの議論全体を踏まえた上でやっていこう、という姿勢には共鳴する。当時(江戸時代)の評価と、近代に入ってからの評価のずれ、というのを認識しておかないと、何が当時の主流だったのかをどうしても見誤りやすいよね。そういう意味では非常に刺激になった一冊。

 『江戸幻想批判』よりも前に読み始めていたのに、読み終わったのはずっと後になってしまったのがチャールズ・ウェブスター『パラケルススからニュートンへ−−魔術と科学のはざま』(平凡社選書, 1999)
 ケンブリッジのトリニティカレッジにおけるエディントン記念講座における1980年の講義をモノグラフにまとめたもの、という来歴を見て、講義がベースになっているんだから読みやすいだろう、などと思った自分が馬鹿だった。前提にされている基礎知識のレベルが高い高い。考えてみれば市民講座とかじゃなくて、天下のケンブリッジの講義なんだからそんなの当たり前なのであった。
 というわけで、全然知らない人名がガンガンと出てくる出てくる。大雑把な議論の流れはつかめるけど、細部はよく(というか全然に近い)わからなかった、というのが正直なところ。人名辞典を横に置いて読むべき本であって、16・17世紀のヨーロッパの科学史・文化史に相当の自信がない限りは、間違っても私みたいに電車の中で読んではいけない本なのであった。
 ただ、ざっと読んだだけでも、機械論哲学が魔術や精霊を追い払った、などという図式はなりたたない、ということはよくわかる。それは、もう少し複雑で幅広い変化の一部みたいだ。自然魔術と科学の関係(ほとんどイコールだったのね)とかも、結構楽しい。つくづく信仰の問題ってのはでかいんだなあ。
 それにしても、もう少し訳注とかつけてくれればいいものを、というのは無い物ねだりなんだろうか(もっと自分で勉強せい、ということか……)。あと、解説と本文がなんだかずれているような気がするのは気のせいかなあ。解説に出てくる人名が、ほとんど本文に出てこないんだけど……。


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