読書日記のページ

2000年5月

2000年5月30日

 京都で行なわれたシンポジウム、「学術的まんが研究の可能性と課題」に行ってきたので、そのレポートを書いてみた。
 レポート本体には(本筋にはあんまり関係ないので)書かなかったのだけれど、夏目房之介さんや呉智英さんらの発言を聞いていると、自分の言葉で食っている人の言葉の力強さ、というのに圧倒されてしまった。当然といえば当然だが、こんなとこで駄文をでれでれ垂れ流している人間とは鍛え方が違う。と、いいつつ垂れ流すのをやめないのだけれど。

 さて、話は変わって、今回はずいぶん前に読み終わっていたのだが、風邪をひいたりして感想を書き損ねていた、斎藤環『戦闘美少女の精神分析』(太田出版, 2000)について。
 おたくとは何者なのかを分析する第一章から第二章、海外の状況を紹介する第三章、著者の偏愛(?)するヘンリー・ダーガーとその作品(といっていいのか……)を紹介する第四章、マンガ・アニメ・特撮における戦闘美少女の歴史を概観する第五章、そして、最後に結論部の第六章、という構成。
 個人的には、これまでのおたく論を俯瞰した上で、著者のおたく論を展開する第一章と、おたくのセクシャリティ問題に鋭く切り込んだ第二章が一番燃えた。例えば、虚構の度合いが高いものを愛好する(実写映画よりもアニメを)とか、「実体」や「実効性」への指向が乏しいとか、自分がぼんやりと考えていた自分の(マンガ・アニメ好きという側面における)志向性を明確に言語化してもらえた感じがする。
 もっとグッときたのが、愛着物の所有方法の話。おたくがその愛の対象をわがものにする方法が、「虚構化の手続きによって」である、というくだりには、ポン、と膝を打ってしまった。
 以前、人から、なんでお前は偉そうに人の書いた(描いた)ものにごちゃごちゃ文句をつけるのだ、といわれたことがある。作者と直接対峙した上で批判するならともかく、安全なところから野次馬的に文句をつけることに何の意味があるのか、と。いろいろ反論は試みたのだが、結局、その人はまったく納得せず、追い込まれた私は、「とにかく、私はそれを書かずにはいられないんだ」というほとんど泣き言(しかし本音でもある)をいって、その議論を終わらせたのだった(というか逃げた)。……で、未だにこんなところにこんなことを書いていたりするのだった(懲りてないなあ)。
 でも、自分の書いているものがその域に達しているかどうかは別にして、評論もまた独立した表現だと思うのだけどなあ(夏目房之介さんもそういってたし……って都合のいい引用はよくないか)。
 というのは置いておいて、「それを書かずにはいられない」ということを、この本の次の部分を読んでくれ、と示すことで説明するだろう。

 それほどに「濃く」ないにしても、一般におたくは評論家である。すべてのおたくは評論衝動とでもいうべきものを抱えており、この点では宮崎勤も例外たりえない。むしろ評論を忘れたファンはおたくには見えない。おたくならば作品を、あるいは作家を語りに語って、語りたおさなければならない。そして彼の饒舌は作品そのもののみならず、作品と自分との関係性にすら及んでゆくだろう。おたくが評論するとき、その情熱はまたしても、新たな虚構を創造するという所有への熱意に重なる。つまる極言すれば、おたくは自分の愛好する対象物を手に入れる手段として「それを虚構化する」「それを自分の作品にする」という方法しか知らない。そこに新たな虚構の文脈を創り出さずにはいられないのだ。

 というわけで、私にとってはこれしかないのだ……といって納得してくれるかなあ……うーん。

 前半の読みやすさととっつきやすさと比較すると、最終章の結論部分は、精神分析(フロイトとラカン)用語が飛び交うので注意が必要。想像界とか象徴界とか、現代思想慣れしている人ならなんてことないんだろうけど……今一つ、一読しただけでは消化不足のままだなあ。もちっとちゃんと読む必要があるのだろう。あと、ヒステリーの意味とか、日常的な用語法とは異なるので、正直戸惑ってしまった。
 全体としては、おたく擁護の指向が強い。おたくのある種の特殊性を踏まえた上での擁護なので、その意味は非常に重いと思うけれど、一方で、特殊性の分析部分だけを切り出せば、いくらでもおたく批判の道具になりうる、という側面もある。もちろん、著者はそれを分かった上で、何度も如何におたくがいわゆる普通の人たちと変わらないか(同じように問題を抱え、同じように罪を犯すこともなく生活している)、という留保や注意をした上で議論を進めているが、読む人によってはそうは読まないだろうなあ、という気はしてしまう。表紙もいいんだけど、引く人は引くだろうし……(そういえば、これが村上隆の作品である、と知る前と知った後で、反応が変わる人は少なくないんじゃなかろうか)。
 ファリック・ガールとしての「戦闘美少女」、という中心になる議論については、なるほど、と思う部分と、先行作品からの影響関係を軽視しすぎなんじゃないか、といったなんとなく気になる部分とがある上に、精神分析用語の部分で躓いてしまったので、よくわからなかったりするが、分かりやすいおたく論の部分だけでも十分にもとは取れると思う(結論部分が理解できればもっと取れるはず)。

2000年5月8日

 大月隆寛『あたしの民主主義』(毎日新聞社, 2000)を、なんとなく衝動買いしてそのまま勢いで読んでしまった。というか、著者が「新しい歴史教科書を作る会」から放り出された経緯がある程度わかったりするので、野次馬根性で読んでしまったというのが正しいか。「運動」に飛び込んで敗北した経緯が語られている、という意味では、もう一つの『脱・「正義」論』という側面もある気がする。
 この本には、90年代に著者があちこちに書いた文章やら対談やら、この本のための書き下ろしやら何やらが、ある程度テーマごとに分けて収録されているのだけれど、とにかく、一貫して同じことを語り続けている、という印象。いわゆる旧来の保守・革新という枠組みで語られる言葉から力が失われていること、そのことを知識人と呼ばれる階層の人たちがほとんど認識していないこと、そうした状況の中で違和感を感じながらも語る言葉を持たないでいる層が確実にいること、そしてその人たちに語る言葉を伝える努力がなされてきていないこと、80年代以降に特にサブカルチャーに近い側から出てきた人たちと旧来の知識人たちとのずれ、などなど。こうした事柄が手を変え品を変え、何度も語られる。
 現状を突破する契機になりうる、と判断して「新しい歴史教科書を作る会」に飛び込んで、3カ月間療養状態に陥るまでその活動に心血を注ぎ、そして復帰した途端に切り捨てられた、という話はなかなか切ない。でも、それでもなお、運動を支える過程で語ってきたことはなかったことにはしない、という覚悟が気持ちいい(もちろん、運動ってのは結局は政治だから、どんないいことを語っていたとしても、政治的に負けてしまったことに対するある種の責任、というものは消えないのだけれど。でも、そんなことは分かった上で出している本なんだろうと思う)。
 肝心の、ナショナリズムに関する話は、なんとなくぼやけているような気がするのは私の読みが足りないのかな……。最後に依拠するのが日本語という単一の言語を話す民族、という枠組みになってしまうあたり、なんかうさん臭さを感じてしまって、ちょっとひっかかる(単一言語の単一民族、って柳田国男の主張から来ている、というのをどこかで読んだような。違ったかな?)。
 それと、ナショナリズムの問題が、これまで何かを感じ、考えながら語ってこなかった人たちをつなげる回路になりうる、という直感は正しいのかもしれないけど、歴史教科書とかより、村上龍のやっていることの方が、回路の作り方としては圧倒的にうまいと思ってしまう。……とか書いていると、著者に、安全なところから眺めて、偉そうに文句垂れてんじゃねぇっ!と説教されてしまいそうだけど。
 ちなみに、巻末の坪内裕三との語りおろし対談が、どこがどうというんではないけど、なんだか面白い。『古くさいぞ私は』、やっぱり買おうかなあ……。

2000年5月7日

 なんだか、あっちこっちで褒められていたので、柄谷行人『倫理21』(平凡社, 2000)を読んだ。基本的には、カントの読み直しを通じて、倫理の根幹を問い直す、といった具合の話なのだけれど、時事ネタへの配慮も結構あったりして読みやすい。
 が、しかし、ここで提起される倫理そのものはめちゃめちゃ厳しい。自由などというものはない、全て様々な要因によって方向付けられてしまっている、という認識を持った上で、なおそのことを括弧に入れて、「自由であれ」という命令に従うとは……。別の言い方でいうと、自分の行動の結果について、他の様々な要因に責任を負わせるのではなく、あくまで自分の意思で行った、と受け止める、ということ、なのかな? 例えば、何か事件が起きる度に、その家庭環境に原因が、とかなんとか理由探しが始まるわけだけれども、そういう環境要因を全部とっぱらって、事件を起こした当人の責任を問う、ということか(この辺の例が出てくるくだりは、優れたマスコミ批判にもなっていたりする)。考えてみれば、実は特別なことではないのかもしれないけれど、実践するのは恐ろしく難しいよなあ。
 あと、面白いのは「パブリック」であることの意味。普通、パブリックとか公的、というと、それはその人の属している何らかの社会集団であったり、国家レベルでの話なわけだけれど、カントは違う。国家の一員として理性を行使する、というのは私的領域の話であって、パブリックってのは、そんな何かに所属しているような制限を加えられたもんじゃあない、ここでのパブリックってなあ、そういう小さな枠組みとかなんとかから全て自由なレベル、つまりは、全公共体、世界全体のことだ、という話になる。ヘーゲルなんて小さえ、小さえ、ってな感じ(ほんとか?)。
 今時、公的、というと、いとも簡単に国家に回収されてしまうわけだけれども、国家なんてものは「私的」にすぎん、と言い切ってしまうところが凄い。えらいぞカント。もちろん、人はどこかの国の国民であったり、何らかの集団の一員であったりすることから逃れることは(普通は)不可能なわけで、その事実は事実として受け止めた上でなお、それを括弧に入れて、徹底的な自由を追及する、それこそがパブリックであるということなのだ、という、考えてみれば過激な話なんである。
 もう一つ、「他者を手段としてのみならず同時に目的として扱え」というカントの道徳法則から展開する話も面白い。「のみならず」というところがポイントで、他者が手段になるのは当たり前、というか避けられないことだけれども、それだけではいかん、という話なわけですな。そして、この他者には、死者も、まだ生れてきていない人も含まれている。となると、今現在の多数派が幸福ならそれでいいじゃん、という話にはならないわけだ(ここから環境問題を論じる根拠付けがなされていたりもする)。
 総じて、考えれば考えるほど、ここで展開される「倫理」に従って生きるのは大変だと思う。宮台真司に生き方教わった方が楽かも……という気もするが、この倫理のあり方こそが、近代の理念の中枢にあるものなのかもしれない、という気もする(なにしろカントだし)。もし、民主主義とか、自立した個人というものが、まっとうにありうるのだとすれば、こういう「倫理」が必要になる、ということを著者はいいたいのかもしれない。民主主義や個人、そして何より自由というのは、恐ろしく厳しい、ぎりぎりのところで成立するものなのだ、と。そのことを感じるためだけでも、読む価値はある、と思う。

2000年5月4日

 ええっと、休み惚けで何を読んだのかを忘れてしまっているぞ。いいのか、こんなことで。
 たしか、最近読んだのは……そうそう、『季刊・本とコンピュータ』2000年春号(大日本印刷, 2000)を読んだぞ。
 で、巻頭ルポの武田徹「生か死か、マルチメディアCD-ROM!」に燃えた。技術に翻弄される表現、という悲劇、なのかもしれないけれど、マルチメディアの戦線は移動しながら続いていく。戦いは終わらない。ただ、一番悲劇的なのは、これまでの戦いの過程が、どこにも組織的に残されていはいないということかも。どこかにコレクターがいて、CD-ROMを大量に残していてくれることを祈るしかない。あ、でもハードもないとだめか……。うーむ。
 あと、焼くところまで個人レベルできてしまうCD-ROMというメディアの特性が、DVDでは失われてしまう、という指摘が新鮮。なるほど、DVDへの転換には、そういう側面もあったのね。リージョンコードの問題といい、とことん、DVDってメディアは企業論理が貫徹されているなあ。
 その他の記事では、橋本治「産業となった出版に未来を発見しても仕方がない」も秀逸。映画と図書館をキーワードに、本の未来を語ってみせる。いや、日本文化論を語った上で、本の未来を(あるいは産業としての出版の未来のなさを)語ってみせる、というべきか。日本の文化そのものが、終わりの時を迎えようとしている、という指摘に愕然。あまりにも鋭い。さすが、の一言。
 津野海太郎・室謙二「Eメール対話 中国の出版電子化は若者の手中にあり」と比較しながら読むと、さらに危機感大……っていうか、中国の勢いみたいなものがひしひしと伝わってきて、ぞくぞくする。21世紀に日本の居場所ってあるのか?

 ちなみに、オンライン版本とコンピュータでは、『100日議論 その2「人はなぜ、本を読まなくなったのか?」』がスタート予定(連休明けからかな?)。これも楽しみ。
 ついでに、『100日議論 その1「オンライン書店は本の文化を変えるか?」』の100日以後のコーナーでは、司書過程の「情報検索演習」で教材として100日議論が使われたそうな。というわけで、京都橘女子大学文学部の学生の感想がいくつか掲載されていたりする。といいつつ実は、先生の

授業全体で受ける印象なのですが、まじめな性格の学生ほど、本気で図書館司書を目指している学生ほど、教科書通りの図書館の理想像に固執しがちです。「ただ本が好きだから、とりあえず司書の資格でも」という学生の方が「本の文化」について柔軟な発想をもっていて、私も教えられることが多々ありました 。

という話が一番面白かったりして。うーむ。


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