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タイトル50音順リスト
著者別リスト


その他いろいろ読書メモ(1997年10月〜12月)


知のモラル(1997.10.4)
現代思想 1997年9月号(25巻10号)(1997.10.12)
京古本や往来 78号(1997.11.1)
書物(1997.11.1)
季刊・本とコンピュータ 1997年秋号(1997.11.11)
植物学と植物画(1997.11.16)
マンガはなぜ面白いのか(1997.12.11)
方法の擁護(1997.12.11)
江戸の植物学(1997.12.11)


知のモラル

 小林康夫・船曵建夫編
 東京大学出版会 1996.4.10

(メモ)
「もし、われわれがみずからの行為を完全に倫理的に正しいと自認するようなら、それはまったくモラル的ではありません。みずからの行為を正当化するすることがモラルの問題ではないのです。モラルはイデオロギーではない。自分に対して倫理的に正しいという判断をあらかじめもってしまっていることほど、モラルとして醜いことはありません。そうではなくて、みずからの行為が正当であるかどうかの保証がなく、確固とした判断基準もないところで、しかしみずからを基準にするのではなく、あくまでも他者を基準にしてみずからの行動を考えようとすることこそがモラルです。」

 もちろん、ここで問題になっているのは「知」のモラルなのではあるけれど、引用した部分は正直言って、身に染みた。大学生の時にこれを読んだとしても、大して何も思わなかったような気がする。仕事をして、様々な決定や決断の現場に立つようになった今だから、なんだろうなあ。ほんと、学生の時は気楽だったのだなあと、今になって思うよね。ああ、年だなあ……。
 もっと早くに読むつもりだったんだけど、なんだかその気にならなくて、他の本の間に埋もれてしまっていた。正直、3部作(『知の技法』『知の論理』とこれ)を読むのにこんなに時間がかかるとは思わなかったな。読み始めると、そんなに時間はかかんないんだけどね。やたらと易しく書いてあるし。でも、今だから感覚的にわかる、という部分もあるわけで、まあ、結果的にはよかったのかな。
 ちなみに、引用は小林康夫「知のモラルを問うために」から。個人的には、「第3部モラルの現場」に入っている隅谷三喜男「社会的公正への道――三里塚における対話」、森政稔「「学校的なもの」を問う――教育の場における権力・身体・知」あたりが、一番くるものがあった。いやー、社会人だね、私も。
 その他、長谷川真理子「種と個のあいだ――「利己的な遺伝子」をめぐって」とか、単純に俗流利己的遺伝子派批判としても実にまっとうでうれしい。物を作るところまで含みこんだ上で学問論を展開した吉川弘之「コレクションとアブダクション――学問の作り方とその責任」なども面白かった。
 やっぱり、こういう本は書き手が燃えていると、それだけで違うよね。最後の「そして希望せよ」がそらぞらしく響かない、というだけでも、評価されてしかるべきだろうと思う。そのわりには、前の2冊に比べると当時話題を呼ばなかったような気がするのはなんでだろう? みんな、こういう意思決定と責任の問題は避けて通りたいのかねぇ。分かるけどさ。(1997.10.4)

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現代思想 1997年9月号(25巻10号)

 青土社 1997.9.1

(メモ)
 特集は「教科書問題――歴史をどうとらえるか」。当然、従軍慰安婦問題と、ホロコーストが柱。
 特にちゃんとこういう問題について追っかけているというわけではないんだけど、何となく気にはなっていたのだよなあ。結局、私も心情左翼だってことかね。
 議論としては、歴史学の方法論と、歴史と芸術表現との関係という二つの軸が柱になった特集。
 前者は特に修正主義の方法論の分析が主かな。細部の矛盾の指摘を積み重ねて、全体の確実性を崩壊させ、代わりに明解で分かりやすく(そして都合のよい)解釈を流通させる、ってな感じ。どうでもいいけど、自分に理解できないものは間違ったものだ、という発想って、トンデモさんと同じなんじゃねーか?
 それと、社会史の方法の中に、修正主義の基本的方法が胚胎されていた、という指摘(ジャック・ランシエール「「可能」なる歴史を断ちきって」)には、こりゃやられた、という感じ。確かに「その時代にそうした考え方は存在しなかった。だからそれは行なわれなかった」という発想は、社会史的発想だよね。ううむ、全然気が付かなかった……。
 フェミニズムの問題も強烈(大越愛子・高橋哲哉「ジェンダーと戦争責任」)。慰安婦問題や、ユダヤ人収容所における強制売春問題が、80年代の地道な掘り起こし作業によってようやく日の目を見た、という話は全然知らなかった。いや、ほんと無知だね、私も。
 芸術表現との関係では、政治的問題を芸術家が扱うことに対する反発が日本では広く浸透している、という話(富山妙子・嶋田美子・レベッカ・ジェニスン「証言とアート」)にちょっとびっくり。まあ、そんなもんかね。60年代は遠くになりにけり、と。
 後は、「被害者への共感」というものは可能か、という問題が大きいポイント。それを偽善と片づけることは簡単だが、痛みを共有することが原理的に不可能だということを了解した上で、どう行動することができるのか、というコミュニケーションの根源的問題が問われていたりもする。
 それと司馬遼太郎がらみの話(李成市・李孝徳・成田龍一「司馬遼太郎をめぐって」)が、歴史学の問題とも絡めて論じられていて結構面白かった。単純な一般化、という論理の罠か……。
 全般に修正主義が幅をきかせている状況に対する危機感に溢れていて熱い文章が多い(インタビュー以外の翻訳物は相変わらず読みにくいけど、まあこういう雑誌ではしかたないか)。単純なスローガンに問題を回収しない、というところが分かりにくいと言えば分かりにくいんだけど、その限界を心得た上で語る姿勢が結構、気持ちよかったりする。すぐに「日本」とか「日本人」に回収しちゃうのはやっぱり知的怠慢だよなあ……っていうか、丸山真男が批判してたパターンそのまんまなのか。いや、日本人って本当に変わってないかも。あーあ。(1997.10.12)

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京古本や往来 78号

 京都古書研究会 1997.10.15

(メモ)
 京都古書研究会20周年記念増大号。いつもの薄い中綴じじゃないぞ。
 巻頭言の井上章一「古書哀話」が、にやりとさせて案外いい味だしてる。日文研の人なんだ。
 あとは、歴代代表による座談会「京都古書研究会の草創期をふりかえる」も、古本まつりを始めたきっかけや、始めた当初の思い出などが、生き生きと語られていて、これまた結構、面白い。図書館と協力してイベントを行ったり、児童書に力を入れていたり、京都の古本屋ならではの活動も知ることができる。そういう意味でも、有意義な座談会。年表もあり。
 その児童書がらみで、児童図書館ピッコリーと、こどもの本屋きりん館の紹介もあり。なかなか京都も侮れない。
 特集以外の目玉は、住吉朋彦(宮内庁書寮部)「鎌倉敬三氏蔵・元刊本『古今韻会挙要』観記」。76号で紹介されたものを、専門家がさらにチェック、という感じか。刷られた時期は同じでも、伝来の違いによりそれぞれ様相を変えていく、という話がなかなか含蓄が深い。
 それから、森田憲司(奈良大学)「漢籍データベースの周辺」も、参考文献の紹介まであって勉強になってしまった。
 最後の小話(?)「青空古本まつり(秘)インフォメーション」も、結構、いい味。こういうあんまり意味はないけど、雰囲気は伝わってくる、という感じの記事もいいもんだなあ。『日本古書通信』には絶対ない味だよね。(1997.11.1)

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書物

 森銑三・柴田宵曲著
 岩波書店 1997.10.16
 岩波文庫

(メモ)
 森銑三に柴田宵曲、その上書名が「書物」とくれば、これを読まずに何の愛書よ、ってなもんである。
 昭和19年の初版である以上、「現代」の出版界について苦言を呈す時には、当然その時点のことを語っているわけなのだが、出版点数があまりに多すぎるとか、売ることだけを考えて良質な書物が出版されなくなってきているとか、なんのこたあない、今読んでも全然違和感ないのであった(と、いうことは現在の出版界の体制の基礎は、実は戦時期に作られたのかな?)。
 しかし、やはり読みどころは怒濤の蘊蓄。もちろん、江戸時代の本そのものの話も出てくるのだが、一番面白いのは本を巡る人たちに関する話の部分だろう。本というものがいかに因果な代物か、非常によくわかる。
 もう一つの主役は明治・大正の文人たちで、夏目漱石を初めとした誰でも知っている有名人から、出版当時はいざ知らず、今となってはその筋の人たちにしか名前を知られていない人たちまで、様々な人物が登場する。直接会った人もいれば、書物の上でしか知らない人もいる。でもどちらも同じように、懐かしげに語られているのがなんともいい。
 前半が森銑三、後半が柴田宵曲、という構成。文章の巧みさから見ると、柴田宵曲の方が上、という気がするけど、どうしてどうして。森銑三もやや硬い文体で蘊蓄を傾けたと思いきや、返す刀で舌鋒鋭く出版界の現況を批判して、飽きさせない。いや、岩波文庫も味な本を出してくれる。
 でも、この手の本って、一回絶版になると、そう簡単には再版されないんだよなあ。本に関する本って、そんなに売れないのだろーか……。

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季刊・本とコンピュータ 1997年秋号

 大日本印刷 1997.10.9

(メモ)
 相変わらず力の入った編集。DTPでもこういう(とんがってない)レイアウトができるんだなあ、と何だか感心してしまう。
 個人的には津田梅太郎「だれのための電子図書館」が、おお、言いたかったことが目の前に、ってな感じで感動。図書館が民主主義の理想を語らなくなったのは、いつからなんだろうなあ。
 特集「電子出版は未来を開くか?」は、最初の特集企画が決まるまでのメールのやりとりの再現が一番面白かったりする。問題意識の鋭さが、記事にまで届いてない恨みあり。それだけ電子出版の未来は混沌としてるってことか?
 後は、目についたものを適当に。
 座談会「本なんか一人でも出せるぜ」は、ガリ版からインターネットまで含みこんだ形で「本」というものを捉えようとしている、という姿勢が明確でちょっと嬉しい。
 松田哲夫「印刷に恋して 第二回 あこがれの活版職人になる!」は、活版印刷の体験記。これは勉強になった。基本的に16世紀以降に確立した、西洋の活版技術のノウハウを生かしながら(変わってない部分が結構あるみたいで、正直驚いた)、字数の多い日本語に合わせた方法を作り上げてきたのだ、ということがよくわかる。
 片塩二朗「活字に憑かれた男たち 2 變軆活字廃棄運動と志茂太郎」は、戦時中の日本活版印刷界の暗部について、少し光を当ててみた、という感じ。こういう運動があることすら知らなかったので、結構衝撃。戦前と戦後では、活字・字体という面でも断絶がある、というか断絶が作られた、ということなわけか。文化なんて脆いもの。だからこそ、守る価値があるのだなどとしみじみ思ってしまったりする。
 なんだか古いとこに関する話ばかりに感心しているなあ。でも、新しいとこの話は、ある意味でどこでも読める状況だからなあ。こういう本の歴史に関する記事の方にどうしても惹かれてしまう。ま、しょうがないよね。(1997.11.11)

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植物学と植物画

 大場秀章
 八坂書房 1996.11.25

(メモ)
 植物学者である著者が、西洋を中心とした植物画の歴史をいくつかのトピックを中心に解説したもの。
 一番勉強になったのは、優れた植物画の条件について、植物の特徴を端的に示しているかどうか、という視点から書かれているところ。花や葉の付き方や、葉の裏表や輪郭が明確に分かるように描かれているか、など、よく考えたら今までそういうとこに注目して見てこなかったなあ、という点が、科学的図版としての植物画にとって非常に重要であるということがよくわかった。……まあ、今までちゃんと分かってなかった自分に問題ありなんだけど。
 全体は7章で構成されており、各章題は次の通り。

  1. 私の植物画論
  2. リンネとエイレット
  3. バンクス植物図譜とシドニー・パーキンソン
  4. キュー王立植物園の植物画家と植物学者
  5. 花の画家ルドゥテと植物図譜
  6. バラとバラ図譜
  7. 日本の植物図譜

 「バラとバラ図譜」ではバラの野性種の発見や、現行の園芸品種の概略の解説など、背景になる知識を紹介した上で、バラ図譜の歴史を辿る、という植物学者ならではの趣向が嬉しい。「日本の植物図譜」では、岩崎灌園『本草図譜』、川原慶賀、五百城文哉をとりあげている。特に最後の五百城文哉(いおき・ぶんさい 1863〜1906)については全然知らなかったので、こういう人もいたのか、と感心。近代日本も侮れない。
 あとがきの最後には、著者がこれまで書いたボタニカル・アートに関する文章の年代順一覧が添えられている(そのうちのかなりの部分が本書に取り込まれている模様)。当然、索引もあり。人名については、本文中はカタカナ表記でも必ず本文上の余白にある注記スペースに原綴が書かれているのに、引用書名が日本語だけの表記だったのでおや?と思っていたら、ちゃんと巻末に原題の一覧がついていた。ううむ、スキがない。ちゃんとした本である。(1997.11.16)

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マンガはなぜ面白いのか その表現と文法

 夏目房之介
 日本放送出版協会 1997.11.20
 NHKライブラリー

(メモ)
 実質的にはNHK人間大学のテキストの増補改訂版。あのテキストのスタイルだとなんだか読みにくかったんだけど、この文庫本よりちょっと大きめの版型(ライブラリー版とでもいうのかな)だと、結構すらすら読めてびっくりした。
 やっぱり、コマの構造分析が一番面白いなあ。特に、少女マンガから発展していった空白のコマ(「間白」と呼ばれている)の意味付けのとこが、同じような話を何度か読んでいるはずなのだけど、けっこう刺激的である。
 テキストの改訂版に加えて、講演録を2つ収録。一つは「恋愛マンガ学講義」。フィクションである恋愛を、マンガがいかに微妙なところまで描けるようになったのか、という歴史的展開と、恋愛自体がフィクションとして成り立たなくなりつつある状況すら描くようになってきているマンガの先端部分を紹介、という感じ。『小さなお茶会』を取り上げて、「これが連載された78年から87年に、小さいけれどもそこですべてが完結しているユートピア世界という、閉じた楽園のような時代感覚があって、それをとらえているような気がする」と指摘するあたり、なるほど、という感じ。
 もう一つは「香港マンガからみた日本マンガ」。変化の激しい香港のマンガ状況を紹介すると同時に、その可能性も指摘する。唐沢俊一の『アジアンコミックパラダイス』を高く評価しつつも、「マンガは稚拙な面白さを本質とするのだから、タイのマンガは稚拙なレベルにとどまってほしい」というような主張に対し、「マンガというのは勝手に進歩してしまうものです」とちょっとクギを刺すあたりが、正面からマンガを論じようとする著者の方向性を明確に示していて、よかったりする。(1997.12.11)

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方法の擁護 科学的研究プログラムの方法論

 イムレ・ラカトシュ著
 村上陽一郎他訳
 新曜社 1986.6.29

(メモ)
 こんな難しいの語れんわい。独特な用語に慣れてしまえば、結構、面白いのだけれどね。
 ここで提示されている「研究プログラム」という枠組みは、自然科学だけではなくて、あらゆる知的活動について適用できる可能性がある。結構、便利そうなモデルだなあ。江戸時代の学問的枠組みに適用するとどうなるか、とか誰かやってくれんだろうか。
 行間から立ちのぼってくる、著者の「合理性」へのこだわりが美しい。特にポパーへの共感と反発のない交ぜになった批判のあたりが、なんともいえない味わい。せめてファイヤアーベントみたいに、自伝でも書いてから逝ってほしかった、とか書いたら不謹慎かな。(1997.12.11)

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江戸の植物学

 大場秀章
 東京大学出版会 1997.10.22

(メモ)
 東大の総合研究博物館の公開講座をまとめたもの。
 久々に出た江戸期本草学の概説書なので、単純にそれだけでも嬉しい。著者が今の植物学者ということもあってか、基本的に近代西洋の植物学との比較で捉える、というスタンスを取っている。それがこの本の魅力であると同時に、限界を規定してしまってもいる。
 東西の差異を明確にして、日本の本草学の特徴を明らかにする、という点では成功していると思うが、一方で、本草学を西洋の植物学とは異なる問題意識と方法論を持った学問として捉える、という面がどうしても弱くなる。それは上野益三にも共通する問題なのだけれど……。(1997.12.11)

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