色川大吉
岩波書店 1997.6.16
同時代ライブラリー
(メモ)
か、かっちょええ……。
これで燃えなきゃ日本人じゃない、という感じのバリバリの民衆史的日本文化史。大東亜戦争をネタに日本人の誇りをうんぬんする議論が子供の遊びに見えてくる……って、今までそんなんを本気にしとったんか、私は。
不勉強の極みだが、自由民権運動が、正に草の根レベルからの社会把握の運動であったとは、全然知らなかった。それを各地(特に農村)に残された文書や、蜂起に参加した人たちの逮捕後の調書などから実証する。このかっこよさよ。
日本人に誇りなどというもものがあるとすれば、それは、自由民権運動が、崩壊した時点で、失われているのだ。そのことを静かな怒りと希望を込めて語る著者の心意気こそ、誇りのなんたるかを示しているような気もする。
つくづくと熱い一冊。最近の歴史論争のレベルの低さを嘆く、加筆されたあとがきがまた気持ちよい。(1997.7.1)
大庭修
研文出版 1997.1.30
研文選書
(メモ)
著者は、『江戸時代における唐船持渡書の研究』(関西大学出版部)の人。副題のとおり、古代から江戸時代にかけての漢籍の輸入とその利用に関する著者の知見をまとめたもの。
一応、一般向けを意識はしているのだろうとは思うけど、漢籍に関する基本的知識がないと、ちょいと読み進むのはきつい。タイトルずらずら並べることが結構多くて、それを見ただけでは分野がさっぱり分からなかったりするとちんぷんかんぷんな状態に陥る。
が、結構、面白い話も多い。
目次を並べておく。
とにかく、しっかり原資料を見ているところが強い! 二次文献だけに頼った研究ではこうはいかないだろう。著者がその資料を見て、発見してきたことの蓄積が、決して流ちょうとはいえない文体から、にじみ出してくる。
本書の最大のポイントは、明治以降の西洋文明摂取の過程で、蘭学・洋学重視の歴史観が定着し、結果として中国文化、特に中国からやってきた書物である漢籍の重要性に対する認識が、失われてしまった、ということ。日本文化史を、日本と西洋、という視点からだけ見ることの危険さと、見落とすものの大きさを著者は語っている。
こういうことを、もう少しこの分野に特別に感心のない人たちにも分かりやすく紹介できる人が出てくるといいんだけどなあ。(1997.7.16)
宮台真司
リクルート 1997.8.1
ダ・ヴィンチ ブックス
(メモ)
宮台真司があっちゃこっちゃに書いた短い文章をまとめたもの。何となく買って、何となく読んでしまった。
それにしても、つくづく媒体の特性に合わせた文章の書き方を心得た人だなあ。メディアに応じて自己イメージを操るのは当然、ってな話も出てきたけど、なるほど、という感じ。
オタクに関する問題は眼中にない、というか、先鋭な問題ではない、と割り切っているのが明確にわかるのが楽しい。オタクは現在という場とは別の場所に居場所を既に持っている、という意味で、既にある程度楽になっちゃってる、ということかな? あと、別の場所を求める、という点では現在的だけど、その得た場所が現在的ではないので、今を語ろうとすると、先鋭な問題としては弱いって感じもありか。ううむ、オタクを相手にしてるよりも、援助交際しちゃう女の子たちと話してる方が楽しいからだ、と言われた方がなんぼかマシのような気もするな。
なのに、コミック・クリエイションとかに出てくると、「僕も君達と同じで、世界にシンクロしきれないんだ」的な言動をしてしまうのが、ちょいとサービス過剰? だからオタクに人生相談なんてされちゃうんだって。メディア戦略立てて生き残っていくってのも大変だなあ。
大塚英志の『「りぼん」のふろくと乙女ちっくの時代』(ちくま文庫)に書いた解説も収録。あらためて読み直してみると、これが結構よい。「失われた幻想はもう帰らない」という事実を確認した、と書かれてしまうと身もふたもないが、少女マンガの未来を語ろうとするなら、ここから出発するしかないんだろうなあ。(1997.7.27)
アラン・G・トマス著
小野悦子訳
晶文社 1997.5.30
(メモ)
四章構成。各章題は次の通り。
今一つ翻訳がぎこちないところが残念。通史というわけではなく、それぞれかなり限定した主題について扱っているので、書物の歴史全体を通観しようという目的には使えない。
それでも、各章、手際よくまとまっているし、今までとにかく有名なのは知っていたけど、何で有名だかよく知らなかった書物について、なんとなく輪郭が分かったような気になってしまうのはさすが。写本では『リンディスファーン福音書』『ケルズの書』、初期印刷術ではニコラ・ジェンソンのプライヴェート・プレスへの影響、プライヴェート・プレスではアメリカでの展開などが、個人的に勉強になったところ(我ながら無知……)。第3章は、丸々未知の世界。アクアチント技法の確立と水彩画の関係とか、全然知らなかったなあ。彩色図版の歴史は奥が深い……。
図版はカラーとモノクロ両方。特にカラーの図版について、その章のところになかったりするのが見にくいけど、印刷の都合かなあ。参考文献を省略しなかったのは当然といえば当然だけど、偉い。あと、訳者あとがきによると、原著には増補版が存在するとのことなので、ぜひとも続編をお願いしたいところ。無理かなあ。(1997.7.27)
W・ラーベ
林道舎 1985.11.30
(メモ)
19世紀から20世紀初頭に活躍したドイツの作家の短編。訳者あとがきを見ると、他にも訳出作品はあるらしいけど、代表作が翻訳されていなかったりして、結構マイナーな作家らしい。
古本屋で見つけて、なんとなく買ってしまって、ついでに薄いのでその日の内に喫茶店で読んでしまった。誤字は多少あるけど、丁寧な造本。活字も大きめで読みやすい。
最初と最後をぱらぱらと見た限りでは、病で死んだ少女の話か?と思ったら大間違い。それを話の枕にして、全然違う主人公=語り手の若き日の思い出が語られてしまう。それがユダヤ人の少女との悲恋(というストレートな描き方はされていないのだけれど……)の話だったりして、結構、ぐっとくる。ユダヤ教的な世界観がベースにあるらしくて、いろいろキーワードが組み込まれているのだけれど、よくわからん。まあ、わからなくても、その陰うつさと荘厳さのきわどい境界領域の雰囲気は堪能できる。100円で買ったにしては拾い物。(1997.8.3)
高野房太郎著 大島清・二村一夫編
岩波書店 1997.7.16
岩波文庫
(メモ)
何となく手にとって買ってしまった一冊(って最近なんだかこういうの多いな)。日本の労働運動の黎明期に活躍した高野房太郎の英文書簡や執筆した雑誌記事などを集めたもの。
要するに、労働組合ってなんなんだろうなあ、という疑問が以前からあったから気になったんだろうなあ。とりあえず、持論としていた、組合は労働条件の改善のためにある、という主張は、明治30年代にアメリカから日本に移入されたものである、ということが確認できたことが収穫か。
結局、この頃と今と、労働者の置かれている環境はまったく違っているけれども、どうやって自分の権利を守るのか、という意識については、あんまり変わらなかったりするのもまた面白い。
それにしても、共産主義・社会主義とは別の労働運動の流れ、というものが日本にもあった、というのは全然しらなかったなあ。これだから日本史とってない人間は無知で困るよな。あーあ。
根無し草的生活の挙げ句、最後まで何も成功することがなかった、というその生涯もなかなか泣かせる。活動初期の友との思想的対立とか、ちょっと同人誌的にそそるよね(不謹慎……)。(1997.8.19)
塩森恵子著
講談社 1995.6.12
(メモ)
人からの借り物(古賀さん、ありがとう!)。あの塩森恵子の育児エッセイ。行き帰りの通勤電車内で軽く読めてしまうお手軽さが嬉しい。
何と言うか、当然のことなんだけど、ちゃんと絵が今風なんだよなあ。本当に当たり前のことなんだけど、なんとなく感動する。
基本的にはよくある育児ものとそう内容的に変わるわけではない(子どもが男ばかりの4人、しかも下の二人は双子、というのが特徴といえば特徴)。ただ、著者の視線の冷静さが、著者自身のドタバタする姿を描写する中にも現れてくるところが、なんともいえない味ではある。その冷静さが、息子たちの愛しさを描こうとする時にぶれるところが読みどころか。そのぶれさえも自覚した上での親馬鹿ぶりは見事ですらある。
しかし、一番面白いのは、著者の冷徹な視線が光る、一番最初の、どれだけ自分は結婚できないと思われていた/思っていたか、という話なのであった。これは傑作。ただ、大塚英志ではないけど、結局、自己の全肯定にやはり繋がっていくところが不思議といえば、やっぱり不思議だなあ。(1997.8.19)
アスキー 1997.8.1
(メモ)
エッセイのかっこいいとこ抜き書き。
中村伊知哉「わからん、それが問題だ」。
「産業やモノだけじゃなくて、美なんてものもアメリカが生産するとしたら、やばいよ。まあ、美しいコンピューターや美しいネットワークを作ってくれるんなら、文句言う筋合いはないけど。」
戸島國雄「それは世間によくある話」。INTER Topの話。
「さて、親指シフトである。この大脳皮質直結のキー配列こそ、私の存在そのものと言ってもいい。このキー配列によって、私は粗雑かもしれないがわずかな考えを言葉に表してきたわけで、パスカルをもじれば「人間は考える親指シフトである」という感じだ。」
川崎和男「モノのアンソロジーII」。INTER
Topの原型となったプロジェクト、Geneseeの話。これが出てたら即買いだったかも。
「「親指シフト派という少数のユーザーを絶対に大事にする」。これは、日本語ワープロのあり方をさらに深化させるために諦めない。このこだわりで、ワープロ機能ではなく、エディターマシンに撤してしまう。」
川崎和男「DESIGN TALK III」。
「日本はもう「負けはじめている」のだ。貿易立国でなければ生き延びれないという現状をすっかり忘れている。本当の、本当の、本当の豊かさをちゃんと蓄積していくために、「勝たなければならなくなってしまった」。」
アスキー 1997.9.1
(メモ)
エッセイのかっこいいとこ抜き書き。
中村伊知哉「わからん、それが問題だ」。
「(前略)……、たった一つの言葉が千の映像よりも鮮烈なこともある、リアリティーを揺さぶるのはデジタルというテクノロジーではなくて、表現という魂だから、どんなに技術が発達しようと、肝心なのは表現したいという火の玉の情念と、表現者の業の深さなのだ。」
戸島國雄「それは世間によくある話」。
「(前略)……ホームページひとつとっても、日本のキー入力状況が文化にまで消化されていないことは一目瞭然である。膨大なキー入力の作業はこれから始まるのであって、飾りたてるのはその後の作業である。まともな作法も身に付けていない人がキー入力した文章を、それ風に飾りたてることに時間と金を費やして、果たして何が集積していくのだろうと私は膨大なホームページを見ながらため息をついてしまう。」
田中長徳「掌中の書斎」。
「その理由は言うまでもなく、そういう場所に行くことが1円の利益も産まないということである。これは結構大切な心構えかもしれない。ビジネスとしてのお金儲けにはならないけど、そこには本来の「仕事の火花」が散っているのではなかろうか? 町中を無差別に歩き回って、そこに存在するモノが語り出すディテールに藻もと目を傾けることが散歩の楽しみというものだ。」
富田倫生「電脳天国目玉温泉」。エッセイじゃないな……。エキスパンドブックに関する連載。
「一色の情報だけが大河となって流れ行くなかで、興味深い提案に光が当たらない状況は歯がゆい。蟷螂の斧であることは承知で、せめてもの抵抗を試みたい。そのためには、自分の力量や生かしどころを無視した振る舞いも、厭わないでいようと思う。
「この手にハンマーがあれば、私は世界中の鐘を叩いて歩きたい。」
飯吉透「USA発That's Edutainment!」。
「メディアの形は変化しても、知識を吸収し学ぶための図書館の役割は変わらない。「図書館は本を扱う場所」という凝り固まった考えで児童書のコーナーを縮小する日本の図書館とは対照的に、アメリカではエデュテインメントソフトを、子どもたちを「知識の殿堂」に連れ戻すための「呼び水」として使っている。」
川崎和男「DESIGN TALK III」。
「20代という青春に「お国のため」と盲信させられた父の世代を、私たちは責められるはずがない。その後の日本をともかく築き上げてきた父の世代が造り上げたシステムを今は守り抜かなければならない。
「結局は、「誰も、制裁も認可もできない、この現代日本は救われない状況」にまで追いつめられているわけだ。」
弘隆社 1997.7.25
(メモ)
特集・日本の近代絵本。
おそらくは『サライ』1997年9月4日号(9巻17号)でも図版を多数使って紹介されている、姫路文学館「近代絵本の一世紀展」とあわせた特集だろう(行きたいけど遠い……東京展はないのかなあ)。
『サライ』では、近年、日本の児童書史研究について精力的な活動を行っている(らしい)聖和大学の所蔵資料が、大阪国際児童文学館の資料とともに紹介されているが、こちらの特集の執筆者は、多くが聖和大学に席を置く研究者である。
それぞれ1〜2頁程度の短い記事なので、突っ込んだ議論はもとより期待はできないが、明治から戦前・戦中期の児童書・絵本に関する研究は、対象が一部の雑誌・出版社などに偏ったものが多いだけに、ちりめん本や赤本まで視野に入れたこうした特集は貴重だろう。
特集内の記事は以下の通り。
それぞれ、執筆者の研究のサワリを示した、という感じではあるが、今後の研究の展開に期待を持たせるものが多い。前人未踏の宝の山を前にした、研究者たちの意気込みが伝わってくる。参考文献や、執筆者自身の論文などの紹介もほとんどないので、やや食い足りないが、とりあえずのガイドブックとしてはありがたい限り。
それにしても、こんな楽しい研究をやっている聖和大学ってのは何もんだ?(1997.8.26)
京都古書研究会 1997.8.5
(メモ)
内容は次の通り。
1は著者の鉱山史の研究の概要を著作を軸にして紹介したもの。なんか、ほとんど他人事みたいな書き方が、この京大名誉教授の自分の仕事に対する距離感を示しているようで面白い。
2の著者は俳書の研究者らしく、何とはなしにそこにからめながら、古書店から入手した掃苔研究誌『見ぬ世の友』(明治33年創刊)から斎藤定易という江戸時代の馬術家の伝記を紹介したり、昭和の掃苔研究家磯ヶ谷紫江の浅草に関する考証的研究の業績を紹介している。
3は、3回連載の完結編。今回は『海国兵談』からやや離れて、早稲田大学に所蔵されている「前野良沢肖像 自画並賛」に描かれているのが、実は前野良沢ではなく藤塚知明である、という驚くべき仮説を展開している。なかなか論争的な文体で、こういう媒体だからこそ、という感じ。
あとは京都古書研究会の会長交代の挨拶など。10月からはホームページを開設するとのことで、これまた楽しみ。(1997.8.28)
大日本印刷 1997.7.10
(メモ)
多分、こういう雑誌を読みたいと思っていたのだと思う。欲しかったのは、パソコン雑誌にはない視点なのだな。
ハードから語るのではなく、かといってインターネットの薔薇色の夢を語るのでもない。自分達が今体験している変化を、本を作ったり、CD−ROMを作ったりするその現場から語ろうとする。情報というものに囚われすぎずに、どこかに「もの」としての感触を残す。そしてコンテンツを作り出すのは人だ、という確信。活字を巡る歴史的な視点を取り込んでいたりする視野の広さ。
そういったもろもろの特徴がとても心地よい。巻末の津野梅太郎「対話と相互教育の道具にしたい――『季刊・本とコンピュータ』の創刊にあたって」を読めば分かるが、志は明確だ。その明確さが、雑誌全体に力強さを与えてくれている。
どれか一つの記事を選べと言われると、実は困ってしまうのだが、やはり巻頭ルポ「百科事典が動いた!――『エンカルタ97』VS『マイペディア97』」が面白い。できあがった製品から語るのではなく、それを作り出そうとした人から語る、というのは、良く考えたら欧米のノンフィクションの手法では?という気もするけど、それが実に効果的。日本の百科事典文化の蓄積にも触れることができる。あとは、宮下志朗の「写本文化――もうひとつのインターネット」が嬉しかったりしたかな。
しかし、やはり一冊丸ごとを楽しむべき雑誌だと思う。秋もちゃんと出るといいなあ。(1997.8.31)
新潮社 1997.9.1
(メモ)
特集は「冷泉家 サバイバル800年」。
当然、東京都美術館で8月30日から10月12日まで開催されている「京の雅・和歌のこころ 冷泉家の至宝展」を踏まえたもの。展示品の解説に留まらず、現在解体修理中の京都の冷泉邸での取材を加えて、今に残る公家の生活の一端を知ることができる。
藤本孝一・小倉嘉夫による冷泉家の歴史の概説と、塚本邦雄による和歌の家、冷泉家の歌風の概説があり。中流貴族であったからこそ、これまで貴重な典籍を残し伝えることができた、というのにはちょっと驚いた。
しかし、今回の展示が、明らかに冷泉邸の修理の費用を捻出するためだというのが見えてしまうあたりがつらい。本当に日本の金持ちは金の使い方を知らないよな。なんとかしてやれよ、と、ちょっと腹が立つ。まあ、入場料が何に使われるか分かるぶんだけ払いやすいといえば払いやすいか。
それから、連載「福富太郎のアート・キャバレー2号店」の第4回に、川原慶賀と藤沢梅南を取り上げられている。梅南は、桂川甫賢の息子、つまり甫周の弟にあたる。幕府の軍制改革を行なう傍ら、絵筆も握ったとのこと。いや、こういう人もいるんだなあ。全然知らなかったよ……って、いかに洋学史勉強してないかばればれだなあ。うーむ。(1997.8.31)
川崎和男
アスキー 1997.7.10
(メモ)
時々、主語がどれで何がどこにかかるのか分からなくなることがある。特に、抽象的な議論を展開している時にそういう文が増える。論旨を読み取りにくいところは少なくない。
それでも、これはかっこいい。
自分自身の方法論に対して、確信を持つものだけが語ることのできる言葉。いや、もしかしたら確信などないのかもしれない。それでも、自分の「デザイン」を語るのだという意思がそこにはある。意思に貫かれた言葉はただひたすらかっこいい。
川崎和男に倣うなら、ここは「美しい」と書くべきだろうが、美しい、という言葉を使うのは気恥ずかしいので、こう書いておこう。川崎和男ほどの意思は、私にはない。自分に手の届かないところにある意思を評価することはできない。だから、スタイルを評価する言葉だけを書こう。かっこいい。
『MacPower』に連載されたDesign Talk
IIに、個展「プラトンのオルゴール」のパンフ(?)と『ぶっくれっと』(三省堂)に連載された「イマジネーションの透視図」を加えて1冊にしたもの。ただ、本来の姿は、雑誌に掲載された時の、見開き2ページにびっしり詰まった活字(ではなくDTPなのだから、文字と書かなければならないか?)のような気がしてしまう。レイアウトの力を再確認した気分。
ここに書かれているデザイン論を読んでいると、自分の仕事そのものをデザインしなおしたくなる。思想もなく、目的もなく、理想もない。いや、理想はある(はずだ)。ただ、理想を語ることも、理想を実現するために構想することも、全ては別の誰かがやることで、そこに自分の入る余地などはない。それでも、別の誰かが、実現すべき理想を、デザインを示してくれるならばいい。けれど、それが示されたことはない。自らの正義に対する盲信。組織防衛と責任回避。この美しさの欠如には唖然とし呆然とする。それでも、なすべきこととは、到底思えないことをなすために、神経をすり減らす。当然、「努力は報われることはない」。
川崎和男は喧嘩を薦めるが、喧嘩をしてまで守るべきものなど、ない。やるべきことは、やりたくもないことでしかない。やりたいことは、やるべきことの前にはあまりにも無力だ。やるべきことをとにかく片づけなければならない、と思う。が、いくら思っても、その前には必ず障害が立ちはだかる。それは、川崎和男が抱えているような、身体的な障害ではない。だから、実はたいしたことではないのだろう。多分、そうだ。けれど、毎晩、眠りは浅い。
変革への強い意思と、方法論の提示によって、この本は、力強いメッセージを発している。そのメッセージに魅惑されながら、同時に絶望している自分がいる。戦う力が残っているうちに、読むべき本だった。
それとも、まだ間に合うのだろうか。(1997.9.4)
デーヴァ・ソベル著
藤井留美訳
翔泳社 1997.7.25
(メモ)
海上で経度を確定するための方法を求めて行なわれた様々な試みや論争を、決定的解決をもたらした船舶用時計の開発者、ジョン・ハリソンの事蹟を中心に概説したもの。
著者は科学ジャーナリストというだけあって、平易な文章で、この問題がいかに重要なものであったかを分かりやすく教えてくれる。そういやあ、緯度は星の位置を見れば分かるけど、経度は時間の測定ができなければ難しいよなあ。イギリスが国家事業にするわけである。というわけで、話はイギリス中心に展開する。
月を使った天空の時計と、人が作りし機械仕掛けの時計、どちらがより早く必要な精度を達成するか、というなかなかスリリングな物語にもなっていて、飽きさせない。技術的な説明や科学的説明はある程度はしょっているので、やや人によっては物足りない感じを受けるだろうが、このくらいが一般向け読物としてはいいバランスではないかな、と思う。難点は、この問題についてより深く知りたい、と思ったときに読むべき日本語の文献が紹介されていないことだろう。それともそんなものは無いのだろうか? うーむ……。(1997.9.15)
オリヴァー・サックス他著
渡辺政隆訳
みすず書房 1997.6.20
みすずライブラリー
(メモ)
"New York Review of
Books"主催の連続講演をベースにした科学史エッセイ集、という紹介でいいのかな?
という5つの論考からなる。
タイトルと完全に合致しているのは、1、3、5。
1はメスメリズムと催眠術と反射と無意識を巡る歴史の奇妙な綴れ織りを明解に提示してみせる。メスメリズムを批判するところから始まったはずの催眠術の唱道者が、同じ罠にはまっていく過程が興味深い。
3での主題はがんの原因を巡る様々な試行錯誤の話。学会に置けるスタンダードな学説が果たした負の役割が主題。ウイルス原因論に対する反発を避けるために「因子」という言葉を使ったりする苦労が、科学が人間的営みであるという当然のことを分かりやすく教えてくれる。
5は精神医学者としての自分の体験を中心に、話題は科学史全般に及ぶ。何十年も前に観察され、実際には存在しつづけていたはずの症状が、どのようなプロセスによって、文字通り消えてしまうのかを、その再発見の過程を通して語る部分が、実体験に基づいているだけあって一番面白い。
残りの2は、進化論の理解に例の進化の樹や、単細胞生物から人間に至る一直線の進化の道、みたいな図がいかに人の思考を縛っていくのかについての話。言われてみれば、確かにああいう図は変だよな。
4は、遺伝子とその発現を中心とした生物学研究が、いかにして環境という要因を封印してきたのか、という話。最近のより広い視野をもった研究の方向性にまで言及している。
全体として、一直線に進歩する科学、という単純な物語を否定して、人間の嫉妬や敵愾心が科学の重要なファクターであるということを(考えてみりゃ当たり前のことなんだけど)分かりやすく示してくれている。その一方で、人間がやることだから面白いんだよ、という視線がこっそり隠れされていたりするところがまたいいのだな。
それにしても、特に科学史の専門家というわけではない人でも、科学の歴史に関する豊富な知識を持っていることに驚かされる。日本の科学者と科学ジャーナリストもこうあって欲しいもんだ。(1997.9.21)