読書日記のページ

2001年1月

2001年1月30日

 ある人が「鼻血が出るほど面白い」と評していたが、まさにその通り。
 というわけで、山口昌男『内田魯庵山脈 〈失われた日本人〉発掘』(晶文社, 2001)をようやく読了した。いや、それにしても重かった。電車の中で吊り革につかまって片手で読むのがつらいの何の。やっぱり、こういう本は本来書斎(なんてないけどさ)でじっくり読むべきものなのかも。
 内田魯庵というレンズを通して、明治から昭和初期にかけて存在していた、民間の知のネットワークのあり方を、そこに関わった人々について語っていくことで明らかにしようとした、というのが、大雑把な本書の筋書き。山口昌男が、こういう領域に移ってきていたとは全然知らなくて、正直ちょっとびっくりした。うーん、80年代の印象が強すぎて、実体を見失っていたのだなあ、と反省。
 とにかく、この本、最初から最後まで、登場人物が凄すぎる。『日本古書通信』とか、平凡社の東洋文庫なんかを通じて、名前だけは知っていたけど、どういう人だかいま一つよくわからん、という感じだった人々が次々登場して、その人たちが何だか知らないけど、みんなどっかでつながっているのである。伏線バリバリの長編小説のラストで、一気にその伏線が一つの流れになだれ込んでいくような感じが、一冊丸ごと楽しめる、とでもいえばいいか。もう読んでいる間は大興奮状態であった。
 この本に出てきた人物の中で、以前から私が個人的になんとなく気になっていた人たちの名前を、巻末の人名索引を見ながら並べてみる(というわけで五十音順)。
 淡島寒月・石井研堂・市島春城・厳谷小波・衛藤利夫・大槻如電・大野酒竹・幸田露伴・小杉未醒・小林清親・斉藤昌三・柴田宵曲・白井光太郎・武内桂舟・徳川頼倫・鳥居龍蔵・林若樹・松浦武四郎・三田村鳶魚・三村竹清・森銑三・安田善次郎・和田万吉……。
 少なくとも登場ページ数が複数に渡る人だけにしぼってこれである。ちょろっだけ出てきた人も入れたらとてもじゃないが、書き切れやしない。こういう人たちが、世代を超え場合によって国を超え、様々なネットワークを作り、その網の目が重なり合いながら、ゆるやかに繋がっていたのだ。お願いだから、私もそこに入れてくれ、と読みながら何度思ったことか。もちろん、私ごときでは、話にならんと相手にされないかもしれないが、それでも、この人たちの間に入り込んで一度でも話を聞くことができるなら、悪魔に魂を売りかねない。
 ここに描かれたようなゆるやかなネットワークが、様々なコレクションを通じて形成されていること、特に、書物を通じて人々が繋がっていたことを知れば知るほど、憧れは募ってしまう。著者自身もまた、この失われた知のネットワークへの憧憬を隠そうともしない。なんという時代、なんという人々だったのだろう。
 だが、このゆるやかなネットワークが、大学を中心とした制度化された知の枠組みの前に消え失せてしまったことも、著者は嫌というほどよく分かっている(はっきりとは書かれていないが、その分岐点には戦争がある。戦争、あるいは戦時体制の確立が、いかにこのネットワークを完膚無きまでに破壊したのかは、多分、また別の主題なのだろう)。分かっているからこそ、敢えて失われたものを描き出そうとしているのだと思う。
 面白いのは、内田魯庵という人が、随筆を通して、様々な事象に鋭い分析を加えていた、という指摘だ。そして著者自身が、その魯庵の手法をなぞるように、論文とは違う、様々な話題が縦横に展開されながら、いつのまにかより深く、広い何かを描き出す、という優れた随筆的方法論を用いて、本書を書いている。
 だから、内田魯庵の事跡について知りたい、という人はこの本を読んでも何が何だかわからなくなるだけだろう。魯庵個人の伝記を読んだ方がよい。これは、魯庵という窓を通して、魯庵のいた時代の知的風景を眺めるための本だから。
 もう一つは、旧幕臣系人脈が、主流派に対するある種の対抗勢力になり得ていた、というところが面白い。今、そうした対抗勢力になりうるような知的底流はあるのだろうか。著者は否定的なのだけれど。
 それは、やっぱり、ちょっと寂しいことだと思う。

2001年1月21日

 うーん、分厚い本を読み始めたらなかなか読み終わらない……。
 というわけで、ネタがない。

 とりあえず、『少女帝国』(角川書店)の創刊号などを買ってみるが、今一つぴんと来ない感じ。『ファンタジーDX』の後継、ということなのかな? 新創刊なのにファンタジー色を薄めようという気がほとんどなさそうなのがちょっと不思議。表紙は樹なつみだけど、中身は描いていないというのも、ちょっとそりゃないんでないかいな、という感じだし。とりあえず、紫堂恭子の行き場がなくならなかったのはよかったけど……。うーん、何だかよくわからないなあ。

 『レコードコレクターズ』2000年2月号(ミュージック・マガジン)のリイシュー・アルバム・ベスト10を見ていて、ふと、いわゆる、オールディーズ、ポップスの枠がなくなっていることに気付いて愕然。いや、ロック中心の構成になっているなあ、とは思っていたけど、そうか、そういう雑誌になってしまったのだなあ。ビートルズとかストーンズの特集を何度もやるより、もっと発掘してほしいアーティストはごろごろいると思ってしまうんだけど。まあ、商売だから、しょうがないのか……。
 それはともかく、最近のロック系再発ものが、文脈、というか、評価軸を明確にしてきていることが、最近、気になっている。例えば、Dreamsvilleとか、em recordsのような、独自の色をもったレーベルや、ワーナー系の名盤探検隊とか、レーベル横断のThe Country-Rockin' Trustとか。単に、あの名作がCDで出た、というだけではもはや駄目で、その作品が価値がある、ということの意味というか背景まで含めた形で打ち出して、はじめて再発として評価される、という状況になりつつあるような気がする。
 多分、早晩、マンガ文庫も同じような問題に突き当たるんじゃなかろうか。そろそろ、メジャーどころのネタも尽きていくだろうし。そういう時に(エロ劇画系の復刊ではよく使われている手のような気がするけど)、単に作品を文庫にするだけではなくて、周辺のメディアや広告などを使って、その作品を評価するための評価軸みたいなものまで含めて展開する、ということがないと、読み手がついてこなくなるんじゃなかろうか。
 同じことは硬派(?)文庫(岩波文庫とか、講談社学術文庫とか、ちくま学芸文庫とか。どうでもいいいけど岩波現代文庫は短期間にタイトル数を出しすぎだと思うぞ)にもいえる気がするんだけど。もういいかげん、かつて評価されていた著作の価値が多くの人に無前提に共有される、などという幻想は捨てたほうがいいんじゃないかなあ。価値があるなら、その価値のあり方まで含めて、見えるようにしないと駄目なのでは。あるいは、今までと異なる新しい評価軸を示してみせるか。
 というのは、図書館も同じで、たくさん本があります、だけではなくて、その本の持つ意味を引き出してあげないと先がなくなっていくだろう、という気がする。
 などと、考える今日このごろ。

2001年1月14日

 黒田かすみ『ホット・ショット』(宙出版ミッシィコミックス)の2巻を発見して愕然。『Vice』(角川書店あすかコミックスDX)の後、どこに描いているのかと思っていたのだけど、こんなところに……。我ながらチェックが甘いにもほどがある。その後、1巻も発見して一安心したと思ったら、新刊出ないなあ、と思っていた間にハーレクインコミックス(宙出版)に描いていたことが発覚。しまったーっ!! また探し回らないと駄目か……。マンガの新刊チェックはこまめにやらないといかん、ということを改めて実感。
 とりあえず、この『ホット・ショット』はコミカルだけど、得意のクライムアクション(?)で、一安心。途中で掲載誌が変わった(最初は『オフビート』とというタイトルだったとのこと)らしいけど、どこから移ったんだろう。ああ、どんどん情報に疎くなっているなあ。

 『中央公論』2001年2月号に、石川九楊「本居宣長から疑え――「神の国」「三国人」発言を超えて」という論考が掲載されていたので読んでみた。
 要するに、本居宣長のいう「やまとごころ」というものは、それのみで独立して存在したものではなく、漢字・漢文文化とセットで初めて存在し得るものだ、という話である。漢語文化があればこそ、それをベースにして生まれたひらがな文化があるのだ、ということを隠蔽して、元々ひらがな文化的なものがあって、そこに漢字を取り入れた、という虚構を持ち込んだ時に、「神の国」的な発想は始まっていることを著者は批判している。「日本古来の伝統」とか、そういうものが中国や朝鮮半島文化との関係なしに独立してもともとあったかのように語り、その始原の姿を明らかにしようとする誤りを、著者は徹底的に糾弾する。
 まったくその通り、というか、和歌と漢詩は常にセットであったわけだし、政治や文化を語る言葉はむしろ漢文だったことがすっかり忘れ去られ、ひらがな的な発想で書かれた作品のみが徹底して持ち上げられる(源氏物語や古今和歌集などなど)現状は、どう考えてもおかしい。そんなことは、江戸時代の文化についてちょっとでも齧ればすぐにわかることだ。にもかかわらず、漢文で書かれた文学がほとんど忘れ去れているのは、本居宣長の作り出した幻想にいまだに多くの人が縛られているからに他ならない、ということを著者は指摘しているわけだ。
 本気で教養重視の教育をしようとするなら、英語より先に漢文を教えるのが筋ってものだろうなあ。そこにこそ、日本の知識人の積み重ねてきた議論が隠されているわけだし。

 ところで、この石川論文で展開されているような議論を、ずっと以前から行っていたのが子安宣邦。例えば、『「宣長問題」とは何か』(ちくま学芸文庫, 2000)では、宣長の主著『古事記伝』の分析を軸に、宣長の生み出した「やまとことば(国語)」という概念の神話性を明らかにしている。石川九楊は特に言及していないけど、やっぱり下敷きにしているんじゃないかなあ。
 その他、この『「宣長問題」とは何か』では、平田篤胤が宣長に比して無視されがちなことに関して、神話の語りだし、とんいう視点からある意味での再評価を行ったりもしている。
 ちょっと繰り返しが多くて言い回しが難しげな文体なので、とっつきは悪いかもしれないけど、展開されている議論は刺激的。日本古来の、とか、日本の伝統的な、とかいうものが、いかにして作り出された虚像なのかが、自然と浮かび上がってくる。と、同時に、宣長が展開した、外から来た不純物・対・古来からある内部、という構図がいかに近代(現代)日本で繰り返されているのか、考えさせられてしまう。
 もし、「本居宣長から疑え」を読んで、なるほど、と思ったら、『「宣長問題」とは何か』も一読すべし。
 ちなみに、子安宣邦がすごいのは、ちゃんとセットで『「事件」としての徂徠学』(ちくま学芸文庫)を書いているところ。国学と漢学、という問題意識が出ていて興味深い(まだ読んでないんだけど)。それにしても、岩波新書の『本居宣長』が手に入らない……。一度出かけた先の図書館で見つけたことはあるので存在していることは確かなんだけど、古本屋でもないんだよなあ。再刊希望。

2001年1月8日

 あけましておめでとうございます。
 というわけで今世紀最初の更新。でも、今年から新世紀、と考えているのは少数派みたいだけど(ここ参照)。

 今回は20世紀最後に読んだ本と21世紀最初に読んだ本を。
 まずは20世紀最後に読んだ本。室井尚『哲学問題としてのテクノロジー ダイダロスの迷宮と翼』(講談社選書メチエ, 2000)がそれ。著者の略歴やこれまでの仕事については、著者のホームページを参照のこと。コンピュータとか芸術学とか、そういうことの周辺でいろいろ活躍されている人らしい。『ポップ・コミュニケーション全書』とかにも書いていたのか。気づかなかった。
 特にこの著者については予備知識はなくて、実は、書店で何となく気になったので買ってしまっただけだったりする。で、随分長い間積み上げたままにしてしまった結果、たまたま20世紀最後に読んだ本になってしまったのだけど、これは大正解。
 いくつか面白かったポイントはあるんだけど、ポストモダンの議論を単なる流行として終わらせるのではなく、正当に評価するべきという話が比較的最初に出てきたのにちょっとびっくりした。知の置かれた立場が、啓蒙(enlightenment)の光(light)から様々な情報の中の一つにすぎなくなってしまったということ、というか、知を支えてきた社会的構造の変容、ひいては「世界と人間との間を媒介する記号システムの本質的な変容」を指摘したことが、ポストモダン的議論の最も大きな功績だったにも関わらず、そのポストモダンも情報の一つとして消費されてしまったのだ。そういうことをすっかり忘れて、ポストモダンはもうすっかり過去のもの、とあっさりいってしまうことが、いかに「ポストモダン的」であることか。反省。
 同じように、本書では、普通なら過去の歴史の一ページとして切り捨てられるものがもう一度再吟味の対象として議論される事が多い。もう一つの典型的な例がアルビン・トフラーの『第三の波』。正直、『第三の波』がこんなに面白い問題(既存の社会システムに対するためにテクノロジーをもって対抗しようとすることの持つ根本的な問題)を提示しているとはまったく思わなかった。読み手がいいと本が生きる、という実例かも。
 テクノロジーの発展は、それを用いた新しい社会システムの可能性を開きもするけれども、実際には個々の人間が道具を使うのではなく、道具がうまく働くための部品となっていく過程を加速してしまう。そしてその過程は容赦なく進んでいるし、その過程に対峙するための知の枠組みはいまだに現れてはいない、という認識から出発して、テクノロジーと人間の関係に関する歴史的な考察から新しい「文化の気象学」という可能性を提示する、というのが基本的な本書の流れ、になるんだろうか。
 明るい希望に満ちた本とはとてもいえないけれど、もはやこれまでの知のあり方では実際に起こっている地殻変動に対応できない、という切迫感が感じられて、新しい世紀に入る前に読むにはまさにぴったり。しかも、世紀を超えたからといって、まったく問題は古びていない(当たり前だけど)。
 もうちょっと話題になってもよい本のような気がしたけど、他でも取り上げられているのかなあ。

 さて、もう一冊は21世紀最初に読んだ本。
 これは当然、アーサー・C・クラーク著・伊藤典夫訳『決定版 2001年宇宙の旅』(ハヤカワ文庫SF, 1993)しかない!……とはいっても、随分前に買って積み上げてあったのが年末の片付けで出てきただけなんだけど。
 こうして読み直してみると(翻訳が全面的にリニューアルされているからかもしれないけど)、恐ろしいほど描写が古くない。月面着陸が実現する前にこれが書かれているとはすごすぎる。放り込まれているアイデアも、今なら長編の3、4本は書けるだろう、という感じだし。逆に個々の掘り下げが物足りないくらい。
 全体の印象は映画とはまるで違うのだけど、個々のシーンはやっぱりあの映像を思い出してしまうなあ。そういえば、なんでテレビでやらなかったんだろう。どっかやるだろうと思ってたのに……。その代わりにクラーク本人がテレビやら新聞やらに出まくってたのが印象的。まだまだ元気そう、と思ったらまだ80代だったのか。いかに若いときから第一線で活躍していたか、ということだよなあ。うーん、じっと手を見る……。

 そんなこんなで、今年もこんな感じで続けていくつもりです。


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