読書日記のページ

2000年11月

2000年11月28日

 先日、ということになるけれど、天理ギャラリーの特別展「日本の歌謡――梁塵秘抄を中心として」に行ってきた。会期は2000年11月3日から11月25日。
 珍しく(?)江戸時代の写本が中心ということで、天理ギャラリーにしては控えめな展示だったけど、それでも当然のように重要文化財がちょこちょこ入ってくるのはさすが天理。あんまり関心のなかった分野だけに、中身を理解したとは到底言えないが、節回しを図示した写本なんかを見ているとなんとなく楽しい。
 残念なのは毎回楽しみだった図録がなくて、薄い(普段の図録よりももっと薄い)パンフレットしかなかったこと。特別展だから、ということなんだけど、普通なら特別展の方が厚い図録を作るような。ちょっと不思議な感じ。

 ここ数年、仕事の関係でコンサルティング会社の人と会うことが増えてきていることもあって、ルイス・ピーノルト『コンサルティングの悪魔』(徳間書店, 2000)をついつい手にとってしまった。徳間書店のビジネス書ってだけでなんとなく怪しげな印象を抱いてしまうのだが(偏見)、こりゃ面白い。
 中身は元やり手のコンサルタントだった著者が自分の体験を語りつつ、コンサルティング会社のやり口や企業としての行動規範を箴言的にまとめていく、という作り。コンサルティング会社の社員がどういう教育を受け、どういう仕事の仕方をしているのかよくわかる。
 例えば、面白いのは、コンサルティング会社にとって、クライアントとなる企業・団体の混乱が(致命的にならない程度に)長引けば長引くほど、実は都合がよい、という指摘だ。その混乱がコンサルティング会社の責任ではなく、クライアント側の問題であるとすればなおさらよい。クライアントはその問題を解決するためにさらに多くの金をコンサルティング会社に払うことになるわけだから。場合によっては、コンサルタントは、時間と人手をかければ解決するけれども、実は本質的な問題を隠蔽してしまうような「問題」を意図的に「発見」することすらあるかもしれない。そしてそれを何度も繰り返すのだ。こりゃ儲かるよね。
 まあ、これは少々悪意のこもった見方かもしれないが、コンサルティング会社も企業である以上、自分たちの利益を最大化しようとするのはある意味当然だ。クライアント側は、個々のコンサルタントがいかに誠実に見えようとも、あくまでビジネスの関係であるということを肝に銘じておかなければならないってことだろう。
 とはいっても、それが難しいからコンサルティング会社が繁盛するんだろうけど。そこが「悪魔」たる所以なんだろうなあ。

2000年11月19日

 今日は、東京オペラシティで開催されていた、『東京大聖書展』(会期:2000年11月2日〜11月19日)にあわてて行ってきた。危なく会期が終わってしまうところ。
 目玉は死海写本なんだけど、あんまりいい状態のものではなくて、かなり断片的なものが6種。でもまあ、あんまり本物は見られないものだから、断片でも見ることができた、というだけでも評価すべきかもしれない。それにしても、仮設会場みたいなところだったのによく貸してくれたなあ(防火とか防犯とか対策大丈夫だったんだろうか)。
 その他、バチカン図書館所蔵の写本や、天理図書館所蔵のルター訳聖書なんかもあり。そういう本物もある一方で、全体的にはファクシミリ版が多かったのにはちょっとがっかり。まあ、しょうがないんだろうけど……。
 ちなみに、グーテンベルグ聖書は慶応大所蔵のものを展示。慶応のHUMIプロジェクトの紹介も兼ねていて、日立の高精細プラズマディスプレイを使ってグーテンベルグ聖書のデジタル画像をガンガン流していた。確かに、恐ろしいほどの解像度。暗い展示ケースの中の現物よりもはるかに鮮やかに(しかも細かく)その姿を紹介していた。てなわけで、見る人は現物そっちのけで映像に注目、という事態に。いいことなのか悪いことなのか……。
 あと、監視や誘導をやっていた人たちが揃ってシスター姿だったのが印象的。ボランティアだったら、運営経費安上がりだなあ、などと余計なことを考えてしまった。
 欧米語、日本語訳聖書の歴史では、ヨハネの福音書のところに展示箇所をあわせるという、翻訳の変遷がたどれるナイスな工夫あり。聖書の解釈も結構時代とともに動いているんだなあ、というのを実感。

2000年11月18日

 うーん、一度風邪が治ったと思ったら、またひいてしまい、しばし更新停止してしまった。やっと直ってきたけど、暖かくなったり寒くなったり、ころころ変わらないで欲しい……。
 というわけで、あんまり本も読んでいなかったりするのだけれど、立花隆「『「捨てる!」技術』を一刀両断する」(『文藝春秋』2000年12月号(78巻15号))がちょっと楽しかったのでメモ。
 要するに、『「捨てる!」技術』という本は、消費社会に過剰適応することで(どんどん捨ててどんどん買おう!)、人としての記憶や可能性を切り捨てることを推奨しているものでしかない、という話。とりあえず、何を捨てるかは自分で決めるしかない、という立花隆は圧倒的に正しい。人の物まで勝手に捨てるのは許せない(立花隆の離婚の原因だそうな)、ってのはわかるなあ……。
 ただ、結論部分の、DNAだって重複やら無駄が多い、そういうDNAを持つものが生き残ってきたわけだから、必要性がはっきりしないものは捨てる、というのは間違いだ、という議論はちょっと強引すぎ。社会ダーウィズムの変形版みたいだよなあ。こういう迂濶なところが、批判される原因って気がする。科学的知見を無理やり拡張して色んなことに当てはめるのは、それこそ『知の欺瞞』の罠にはまることなんじゃなかろうか。

 同じ、『文藝春秋』2000年12月号(78巻15号)には、林望「図書館は「無料貸本屋」か」も掲載されている。最近よく見かける、図書館がベストセラーを大量(たとえば同じ本を数十冊とか)購入することに対する批判と、基本的には同趣旨。そういう意味では「またか」という気がしなくもない。
 ただ、ちょっと違うのは、ベストセラーというものが、ブームが去った後、読者や古書業界でどのように扱われるものなのかまで踏まえて議論を展開しているところだろう。もちろん、誰も相手にしないし、屑同然のものとして扱われるわけだから、図書館にとっては、長期的には単なる厄介者にしかならない、という議論になる。
 もう一つのポイントは、本がなかなか手に入らない状況下と、様々な手段で入手が可能になっている状況下では、図書館の役割はおのずと変わってくるはずだ、という視点が組み込まれているところか。ちょっと突っ込み不足な気もするけれど、この議論を深めていけば(著作権の議論とも関係するんだと思うのだけれど)、書き手や出版業者をどう経済的に支えるのか、という仕組みまで考えなければならない、というところに辿り着くような気がする。
 最後は、図書館が本を選ぶ(基本的に選ばずに本を集めているのは納本図書館である国立国会図書館だけだろう)、という行為にもっと積極的になるべきだ、という問題提起で締め。本を選ぶ、とか、「良書」を集める、とかいうと戦前の思想統制の記憶があるのか、拒否反応があるみたいだけれど、本質的に限られたスペース、予算の中で、本をやりくりしようとすれば、何らかの形で選択せざるをえないわけだからなあ。その選択基準を図書館に対するリクエストに頼ってきたんだろうけど、それだけでは社会的コンセンサスを得られなくなってきたわけだ。図書館の人たちはどう考えているんだろう。
 個人的には、どう本を選ぶか、って、多分、書店でどう棚を作るか、というのと同じことなんだろうと思っていたりする。それは「良書」を選ぶ、というのとはまた違うことで、個別に存在しているだけでは、見えてこないものを、複数の本を集めることで浮かび上がらせる、という作業になるんだろうけど、本の背中につけられた番号に合わせて機械的に並べることに慣れてしまった図書館員には難しいことなのかもね。


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