読書日記のページ

2000年10月

2000年10月28日

 これまたしばらく前に読んだのだけれど、水越伸『デジタル・メディア社会』(岩波書店, 1999)について少しだけ。
 ちなみに本書は「叢書インターネット社会」というシリーズの一冊。このシリーズ、単行本だけどCD-ROMが付録(というか、資料集に近い面もある)としてついてくるのが特徴だったりする。最近の岩波のインターネットや電子出版への接近を象徴する叢書の一つかもしれない。
 まあ、それは置いておいて、実は、読み始めた時には、「なんか冷めた文章だなあ」という印象で、正直なところピンとこなかった。『本とコンピュータ』の別冊として出た『コリアン・ドリーム』(しまった、手元に見つからないぞ)の時も、似たような感じを受けたのだけれど、めちゃめちゃ刺激的なことが書いてあるのに、刺激的であることが今一つ伝わってこないようなもどかしさを感じてしまったのだな(だから感想を書き損ねてしまったのだけれど……)。
 が、読み進める内に、その冷めた書き方が(書き手の資質もあるかもしれないけれど)、戦略的に選ばれたものであることが分かってきて、俄然、面白くなってきた。
 インターネット代表されるデジタル・メディアの時代を迎えて、そのメディアを社会的に生かしていくための様々な議論や試行錯誤が行なわれていて、同時に、既存の社会秩序の中に組み込んでしまうおうという力学も強力に働きつつあったりするわけだけれど、著者は、その議論や試行錯誤の状況を、電話やラジオのようなかつての新しいメディアが社会の中に組み込まれていった過程を辿るなど、歴史的な展開を踏まえながら、可能性と限界や問題点を(見事なまでに)まとめている。
 著者自身は、デジタルメディアを使った様々な試み(パフォーマンス的なものだったり、社会運動的なものだったり色々ある)に、好意的な立場に立ちながら接してきているように見えるのだけれど、だからといって、熱いアジテーションを展開したりはしない。常に、どこか距離を置いたような書き方をしている。
 そこには、新しい試みに熱狂するだけでは、その試みの持つ可能性を、これからの社会の中で生かしていくことはできない、というある種冷徹な認識があるようだ。例えば、かつてのラジオは、無線通信として発展し始めた時には、今のインターネットに通じるような、双方向メディアとしてスタートしながら、社会に受け入れられた時には、現在のようにマスメディアとして機能する形になっていた、というような事例が紹介される。
 いくらそのメディアに多様な可能性があったとしても、その可能性を生かしていくことは容易ではない。そのためには、メディアに関する様々な議論(メディア・リテラシーとか……)を駆使しつつも、その限界を常に意識しつつ、状況の中で、メディアの潜在力を最も生かす道を探っていかなければならない。新しい可能性そのものを生みだすのは、熱狂(あるいは熱中)だけれど、それを社会の中に溶け込ませていくには、冷静な計算も必要ってことだろう。
 だから、著者は、今のデジタル・メディアの可能性について、好意的だけれど楽観的ではない。だからといって絶望もしていない。
 なんというか、ひんやりとした表面の奥には、マグマがたぎっている。そんな感じの一冊。

 あと、坪内祐三編『明治文学遊学案内』(筑摩書房, 2000)も読んだ。現在続々と刊行が続いている「明治の文学」全25巻の入門編ガイドブック、という感じか。
 とはいっても、別に「明治の文学」の解説書というわけではない。古今の様々な論者の論考を一冊に編むことで、明治文学の楽しみ方を読み取らせよう、という趣向。
 「明治の文学」本編に比べると、ふり仮名も注記もあんまりないので、特に戦前の文章は取っつきにくいところもあるかもしれない。でもそんなことより、何というか、小説よりも小説(家)を論じている文章のほうが面白いんじゃないか、という気分になってしまう、というのは、「明治の文学」の入門編としては逆効果という気も……。
 個人的には、内田魯庵による二葉亭四迷について回想記の名調子がめちゃめちゃ気持ちよかった。上手いなあ。二葉亭自身もさすがに変な人で、中身がこれまた面白い。
 というわけで、内田魯庵の巻だけ買っちゃうかも(鹿島茂が編者になってるし)。

2000年10月22日

 風邪を引いたりしたりしていたので、しばし更新をお休みしてしまった。
 その間、ちょこちょこと読んでいたので、とりあえず、備忘録的に書いておくことに(でも、熱が高いときにはさすがに読む気がしなかった)。

 一番驚いたのは、高木仁三郎『原子力神話からの解放――日本を滅ぼす九つの呪縛』(光文社カッパ・ブックス, 2000)を読み終わった直後に著者の訃報(10/9朝日新聞朝刊)に接したこと。もちろん、ガンだということは知っていたのだけれど、結構ショック。
 文体から見て、この本は口述筆記だったのかもしれないなあ、などと思ったりもする。あくまで、素人にも分かりやすい視点と語り口(講演調)で、問題のありかを明確に指し示そうという意思に溢れた一冊。
 官僚というのは、どんなことでもあたかも正しいことであるかのように語ることができる、ということがよくわかると同時に、その語りを乗り越えるためには、並大抵でない力量が必要になる、ということもよくわかる。原子力についてキャッチフレーズのように語られる、無尽蔵とかクリーンとか安全とか、そういう言葉がいかに根拠がないか、ということを簡便に語っているのだけれど、このことを明快に語るために、どれだけの努力があったのかを想像すると、眩暈がしそう。「市民科学者」という生き方は、多分、結構過酷な生き方なのだと思う(でも、そういう人が必要なのだけれど……)。
 御冥福をお祈りしつつも、原子力資料情報室の今後がどうなるかも気になったりして。

 結局、何か大きなことをやり遂げる、というのは、最後は「人」に帰結する、ということをしみじみと感じさせてくれたのが、高橋団吉『新幹線を作った男 島秀雄物語』(小学館, 2000)
 蒸気機関車の代名詞ともいえるD51の開発の中心人物が、東海道新幹線プロジェクトの中心人物でもあったとは、こりゃまったく知らなかった。その人物、島秀雄という日本を代表するエンジニア、プロジェクトリーダーの評伝が本書。
 一話完結形式(?)で話が進むようになっているので、面白い形式だな、と思ったら、もともと、小学館から出ている雑誌の『ラピタ』に連載されたものを一冊にまとめたものとのこと(加筆訂正あり)。本人の没後から取材が開始されているので、家族やかつての同僚、部下や、本人が生前に整理していた新幹線プロジェクトの各種ドキュメントやメモ類を駆使して、稀有な「スーパー・エンジニア」の姿に迫ろうとしている。
 それにしても、何という先見の明、何という視野の広さ。鉄道が将来果たすべき役割を見据えて、戦後の混乱期から着々と布石を打っていることが跡付けられていくあたりは、もう呆然。凄すぎる。人材を集めてくる力量もすごい(それにしても、戦後、軍にいた技術者が民間に流出したことが、その後の日本の復興に与えた影響って、めちゃくちゃ大きいのでは……などということも考えさせられた)。
 変なプライドに凝り固まったりしないで、独自開発にこだわらず、既にある技術は徹底的に取り入れ、それを組み合わせることで新たな地平を開いていく、という手法なんて、まるで今日NHKが「世紀を超えて」で取り上げていたLinuxの思想を彷彿とさせるほどだ。
 と、同時に、政治・予算面でプロジェクトを支えた国鉄第四代総裁・十河信二とのコンビの強力さがまた印象に残る。技術・実務を支えた島とあわせて、結局、プロジェクトを生かすも殺すもトップ次第、ということがよくわかる。そして、大きなプロジェクトであればあるほど、誰にも見えていないような先を見据えなければならない、ということも。

 トップ次第といえば、国立情報学研究所の猪瀬博所長が10月11日に亡くなっている。御冥福をお祈りしつつも、国立情報学研究所の今後がどうなるかも気になったりして。

2000年10月1日

 9月28日に御茶ノ水スクェアで行われた、進化する図書館の会JCAFEとの共催で行われた、「市民の活力を強化する図書館を!――アメリカの公共図書館」という講演会に行ってきた。講演したのは、アメリカのNPO活動を精力的に紹介している(らしい)岡部一明氏。
 もともと遅刻だったんだけれども、会場が分かりにくかった(チラシの地図にしか会場の名称が書いてないのはちょっと……)こともあって、約30分遅れで会場に入ると、スライドによるサンフランシスコ公共図書館の紹介の真っ最中。鼾をかいてお休みの方もいたのはご愛敬……。
 基本的には、図書館について、という限定した話ではなくて、それを支える広範なNPO活動についての紹介が中心。市民が企画し、市民が活動するという論理が徹底していて、市民参加のあり方として、非常に面白いと思いつつも、これをそのまま日本に持ち込んでもうまく行かないんじゃないかなあ、という気も。でも、講演者の著書を一冊買ってきてしまった。
 なんとなく、独特の雰囲気がある人たちが集まっていたような(自分もすっかりその場に馴染んでいたんだろうか……)気がするのは気のせいか。何というか、こういうタイトルに引き寄せられる人種ってのが(自分も含めて)いるような気がするのだけど、こういう層だけが引き寄せられている内は、大きな動きには繋がっていかないんじゃないか、という気もしてしまう。だから、どうするべき、と書けないところが情けないんだけど。

 その直後に栗原彬・T.モーリス=鈴木・吉見俊哉「《座談会》グローバル化と多層な「公共圏」」『思想』no.915(岩波書店, 2000年9月)を読んだら、NPO屋さんの話が出ていてなんだかなあ、という気分に。
 要するに、NPO法によって支えられた介護産業が、全国的なNPO組織に支えられて立ち上がってきているという話(各地区毎に「高齢者狩り」をさせて、一人探したらリベートが出る、とかそういう商売がNPOとして成り立っているそうな)なのだけど、これこそ、アメリカから形だけ持って来た結果なんだろうなあ、などと思ったりしてしまった。
 だからといって、アメリカにおけるNPOの精神をいくら学んでみても、日本には根づかないだろうなあ。文化、というものが、あらゆる社会的領域に広がって存在するものだとすれば(この前提がこの座談会の一つの通底音になっている)、各地域に応じたあり方みたいなものがありうるんだろうと思う。きっと、サンフランシスコ公共図書館も、サンフランシスコという地域社会の中から出てきたものだろうし(参考にならない、という意味ではないので念のため)。
 あと、この座談会では、T.モーリス=鈴木氏が、シドニー五輪で、アボリジニの「文化」が徹底的に利用されるだろう、という「予言」をしていたのが印象的(座談会は6月に行なわれている)。つまり、少数民族の「文化」を、いわゆる文化的領域(歌とか踊りとか……)で持ち上げることで、逆に政治的領域での封じ込め・無害化を図る、という力学がそこに働くだろう、と見事に見越していたのだな(沖縄サミットでは、沖縄の「文化」が同様に利用されたわけだ)。本当は、文化、というのは、普段の生活や仕事や政治的決定の場においても生きているはずのものなのだけれど……。
 と、いいつつ、開会式も閉会式もテレビで見ながら結構楽しんでしまった自分なのだった。

 あと、今日は、早稲田青空古本市の初日(6日まで)だったので、ふらふらと午後になってから出かけていったのだけど、結構人がいて、まだまだ古本業界も捨てたもんではない、と嬉しい気分。でも、なんとなく、出ている本の状態が数年前より悪いような……。きれいな本はみんなブックオフに行っちゃうんだろうか、などと考えてしまった。それとも、午前中に状態のいいものはみんな売れちゃったかな?


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