読書日記のページ

2000年8月

2000年8月28日

 昨日書き忘れてしまったのだけど、川崎市市民ミュージアムのミュージアムショップで、山口且訓・渡辺泰『日本アニメーション映画史』(有文社, 1977)が平積みになって(帯付きのものまであり!)売られていたのにはびっくりした。随分昔にどっかで見かけたことがあるような気がするけど、こんなところで(定価で)入手できてしまうとは……。

2000年8月27日

 昨日は、川崎市市民ミュージアムに「アニメ黄金時代−日本アニメの飛翔期を探る−」を見に行ってきた。会期が7/15〜8/31で、もう終わりそうだったので、慌てて行ってきた、というところ。
 初期の東映動画の長編アニメ作品(『白蛇伝』(1958)から『長靴をはいた猫』(1969)まで)を中心に、脚本、キャラクターのデザイン画、絵コンテ、美術、動画、セル画、音楽などなど、アニメ製作の過程を構成する様々な要素を多角的に見せていくことで、戦後の日本アニメの正に「飛翔期」を描き出そう、という展覧会……というときれいにまとめすぎか。
 その筋の人には物足りないのかもしれないけれども、単純にセル画やポスター、あるいは画面写真だけで構成された展示に比べれば、アニメの持つ、集団創作物とでもいうべき性格を表現しようとする意欲は評価してしすぎることはないと思う。あえていえば、TVアニメ以降の部分はなくてもよかったような気もするけど、あの部分がないと、今の子どもやTVアニメで育ってきた世代には、連続性(切れている部分もあるわけだろうけど)が見えない、ということなんだろうなあ。
 何はともあれ、美術館という場で、一種の職人として(一部の人たちを除いては)表に現れない存在だったアニメーターが、一種のクリエーターとして位置づけられた、ということは大きいような気がする。そういうある意味での権威付けの装置として働いてしまうことが、美術館にとって幸福かどうかはわからないけど。
 製作会社を一種の創作集団として扱う、という今回の切り口(やっぱり、ジブリがあったからできたのかなあ……)を別の製作会社に応用することもできるだろうし、個人にスポットを当てることも可能だろう(森康二展とかあったら、こりゃ行っちゃうよ)。今後、色んな企画が出てくると楽しそう。
 それにしても、マンガよりもアニメの方が美術館の展示に馴染むような気がしたのは気のせいなんだろうか……。何でだろう?

2000年8月19日

 ううむ、Mac版のIE5を使ってみたら、このページが全然まともに表示されないことに愕然。よく見てみたら、文字コードの指定が間違っていたという……今までずっと間違ってたわけか。というわけで、過去のものまで遡って訂正したので、一応、見えるようになったはず。

 ちょっと前に、安藤哲也・小田光雄・永江朗『出版クラッシュ!?――書店・出版社・取次〜崩壊か再生か』(編書房, 2000)を読んだのだけれど、何というか、出版を巡る状況が大きく動いていることに愕然とさせられてしまった。その状況に楔を打ち込もうとしているのがbk1、ということになるのだろうけれど、その背後には図書館流通センターの戦略がある、ということを、図書館業界の人たちはどう考えているのだろうか、などと思ったりする。
 鼎談形式なので、読みやすいこともあって一気に読める。なんというか、内容の重さと対照的なこの軽い読みやすさが何ともいえない味わい。あ、そうそう。著者の一人、小田光雄が後書きで提唱する、一年間書店の新規開店凍結、一年間新刊書籍の刊行を中止、はほんとに実行してほしいと思うぞ。本が出すぎ。もはや新刊を追いかけるのは(新刊を追いかけることそのものを職業とでもしない限り)不可能だ。
 ちなみに、さらに前には、その小田光雄『ブックオフと出版業界――ブックオフ・ビジネスの実像』(ぱる出版, 2000)も読んでいたりする。ブックオフの「フランチャイズ」戦略の裏をざくざくとえぐる心地よさ。なるほど、こりゃ妙な商売だ。しかもその記述が、出版を巡る様々な状況と絡み合っていて、現在の危機的状況の写し絵になっているあたりがまた面白い……って面白がってちゃいかんのだけど。さらに、前著『出版社と書店はいかにして消えていくか』(ぱる出版, 1999)のまとめとフォローもあってお徳。

 全然話は変わるけれど、『「知」の欺瞞』に関する黒木玄さんのサイトがめちゃめちゃに充実。リンク先にもいろいろなものがあるけれど、感情的で卑劣な攻撃に対して、感情的な書き方で反論するのは、ソーカルのやってみせた離れ技に(結果的に)反するのでは、と思ってしまうものもあったりして。あっちこっち見ていると、あたかも「サイエンス・ウォーズ」に関する「ウォーズ」(メタ・「サイエンス・ウォーズ」?)が発生しているような気分になってしまうのは私だけなんだろうか。何か、それってむなしい気が……。

2000年8月7日

 何かと話題の、アラン・ソーカル,ジャン・ブリクモン著・田崎晴明他訳『「知」の欺瞞――ポストモダン思想における科学の濫用』(岩波書店, 2000)をやっと読んだ。
 なんだか、ポストモダンな書き手(ラカンとかドゥルーズとガタリとか)の書いてることが訳が分からなくても、恥じることはない、という気分にさせてくれる意味でお徳な一冊……なんだけど、著者の狙いは別にそういうところにあるのではなくて、科学(的な専門用語)というものがいかに簡単に権威と化してしまうか、そしてそれをいかに簡単に読み手が受け入れてしまうのか、という事実を白日の下にさらけ出すことにある、のだと思う。
 確かに、こうやって説明されれば、私程度の生半可な科学知識の持ち主でも、この本で取り上げられている書き手たちがいい加減な用語の使い方をしていることは、少しはわかる。しかし、説明されなければ、簡単に何だか凄いことが書いてあるに違いない、と解釈して、懸命に意味を探そうとしてしまうだろう。そういう意味では、見事な本だと思う。
 ところが、面白いことに、ある程度高度な用語になると、著者たちの科学用語の説明が正しい、ということを自分で判断することは困難になってしまう。にも関わらず、明らかに著者の方が正しい、としか読めないのは、何故なんだろう。例えば、科学者が書いているのだから正しい、というだけでは、哲学者が書いているのだから正しい、というのと同じくらい意味がない。
 批判されている対象と、批判している著者の立場は、明らかに非対称な関係、というか著者たちの方が正しいはずなのに、その根拠を示すことは恐ろしく困難な課題なのだ、ということを見事なまでに示してくれた、という意味でも貴重な一冊だと思う。
 科学も所詮、「言説」の一種に過ぎない、と片づけることは簡単なのだけれど、科学やその方法論が有効であるという事実から目を背けても意味はない。いや、むしろ思想的には現状の批判を放棄することにつながるという意味で後退でしかない(という著者たちの指摘はめちゃめちゃに鋭い)。だからこそ、科学というものに(その圧倒的なまでの力を含めて)真っ向から向き合わなければならない、というのが、この本の隠れたメッセージなのだ……というのは、読み込みすぎかなあ。
 巻末には、噂のパロディ論文とその解説まで収録。しかし、このパロディ、相当の知識がないと笑えないところが、また凄い(私は解説読まないとどこがパロディなのかさっぱりわからなかった……)。ジャンルを超えた著者の博識ぶりもまた、本書の魅力の一つかも。こういう科学者がいる、というところに欧米の知識階級の厚みを感じるなあ。


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