読書日記のページ

2000年7月

2000年7月30日

 昨日、目黒にある久米美術館で行なわれている「西学の要は窮理――「久米邦武と科学技術史」展」を見に行ってきた。
 小振りの会場ではあるが、久米邦武の手稿や旧蔵書だけでなく、関連する資料や実験器具等の複製なども展示されていて、小さいながらも充実した内容。あ、ちみなに久米邦武というのは、明治初期に欧米を岩倉使節団の一員として実地に見聞した内容を、『米欧回覧実記』(考えてみれば、こういうものが岩波文庫に入っている、というのは凄いことだなあ)にまとめあげたあの久米邦武のこと。
 今回の展示会は、『久米邦武文書 第二巻 科学技術史関係』(吉川弘文館, 2000)の刊行に併せて行なわれたものとのこと。著作集そのものは、専門家以外にはちょいと高めのお値段だが、今回展示された内容を見る限り、明治初期の優れた知識人による西欧科学理解のあり方を知る上で、格好の素材、という気がした。でもちょっと買えなかった……。代わりに、『歴史家久米邦武』(新訂版・久米美術館, 1997)を購入。一応、歴史家として知られる久米邦武の持つ様々な側面をコンパクトに紹介していて便利。その時点での久米邦武研究文献リストも収録されているところがまた貴重。久米美術館に行かれる折には、ぜひ入手をお勧めしておこう。
 ところで、展示そのものの感想なのだけれど、もちろん、その全貌を完全に理解できるわけもなし。ただ、展示されている久米邦武旧蔵書を見ていて、中国で書かれた漢訳の科学書が、日本の知識人に与えた影響の大きさ、というものを、もっときちんと認識すべきではないか、という印象を強く受けた。もちろん、日本の蘭学・洋学もあってのことではあるのだけれど、中国から流入した知識、という要素は、自分が持っていた印象よりも大きいのではないか、という気がしたのだな。
 それともう一つは、科学的方法論の持つ、批判的な力の強力さ、というものかもしれない。久米邦武という人は、歴史家として、神道の歴史的研究などに手を付けて帝大を追い出されたらしい。そういうエピソードと、今回展示されたような、自然科学的な知識や方法に対する感心というもののの結び付きは、できるだけ予断を廃して、科学的な方法論によって対象の本質に迫ろうとする、ということの持つ、旧来の知的枠組みに対する批判的な力、とういものを示しているような気がする。
 それにしても、この頃から、自分で考え自分で決断する自立した人間にならねばならん、と、いう議論がされていたというのには笑ってしまった。明治からこっち、進歩ないんだなあ(それとも、久米邦武が進みすぎていたのか……)。

 中国で思い出したけれど、随分前に戸部良一『日本陸軍と中国――「支那通」にみる夢と蹉跌』(講談社選書メチエ, 1999)を読んだのに何も書いてなかった。
 「支那通」(著者に従って、歴史的な存在としての対象を表すために、「中国通」ではなく、この言葉を使わせてもらう……嫌な人は嫌だと思うけど)というのは、日本陸軍の中でも、中国関係のポストを渡り歩き、時にはスパイ活動を行い、時には軍閥の援助を行い……と様々な局面で活躍した一群の人たちのことをいう(らしい)。
 本書で取り上げられているのは、そうした「支那通」の中でも活躍が追いやすい一部の人たちだけではあるけれども、それでも、そのある種屈折した有り様は、読後、なんともいえない後味を残す。特に、やたらと本を書いているために、その中国認識や情勢認識の変化が追いやすい佐々木到一の活動と中国認識の変化が本書の中心となっている。
 この佐々木到一という人は、孫文に私淑し、中国が真の革命を成し遂げ、独立を勝ち取り日本のパートナーとなって共に東洋平和のために働くことを夢見ていたりするし、非常に優れた情勢分析をする人だったのだけれど、最終的には、中国人は信頼に足らぬ民族、と蔑視意識を強く打ち出すようになっていってしまう。中国に対する思い入れと、日本の国益を最優先する思考とが、どこかでずれて歪んでいってしまう。そうした個人の視点の変化が、中国国内の情勢の変化、そして日中の関係の変化の描写と絡み合って描き出されていくことで、戦前・戦中の中国を最もよく知る軍人たちの中国観のあり方が浮き彫りになっていく、というのが本書のしかけだ。
 とりあえず、日中戦争を「侵略戦争」の一言で終わらせてしまったりする紋切り型の論調や、欧米がやっていたことをやっただけだ、と安易に正当化するような視点とは、レベルが一段違う本であることは保証してしまおう。
 最後に、後書きに引用されている著者が江藤淳から受けたという指摘が印象的なので、引いておく。

 佐々木が中国に裏切られたというのは、中国が「他者」であるという認識に欠けていたからだ

 この言葉、日本の中国認識の一番深いところをついているような気がする。

2000年7月21日

 『季刊・本とコンピュータ』2000年夏号(大日本印刷, 2000)を読む。
 しばらく前のことだけれど、知人から、「『本とコンピュータ』ってのは現代の『Bug News』なのだな」と指摘されて目から鱗が落ちた。確かに、コンピュータというか「パーソナル・コンピュータ」というか(ただし、断じて「PC」などではない)が単なる道具ではなくて、文化的・社会的に何かを作り動かす何者かだ、ということを語っていて、しかもそれを語るための手段が、個人技としての文章である、というところが共通している。うーむ、十代の時に受けた影響というのは、どこまでも続くものなのか……。関係ないけど、どっかで『Bug News』の復刻版をCD-ROMとかで出さないかなあ。今こそ、読み直されるべき雑誌だと思うのだけれど。
 と、それはさておき、今回は書店・出版社の危機と可能性、という感じの話が多い。その中で、根本彰「情報基盤としての図書館」は、ちょっと違った角度からの議論になっている。とりあえず、図書館関係者は必読。単純に、「利用者ニーズに応えているから正しい」というだけでは、生き残れない時がきていることは、確かだと思うのだけれど。
 あとは、本を読むのにはエネルギーがいる、といった話を書いた編集後記に思わずうなずく。最近、比較的よく本を読んでいるのだけれど、その一方でアニメを見たり、CDを聞いたりする時間がめっきり減ってしまっている。十代、二十代のころのようにはいかないか……。

 7/17のところでもちょっと触れた佐藤俊樹『不平等社会日本――さよなら総中流』(中公新書, 2000)はべらぼーに面白い。10年毎に行なわれてきた「社会階層と社会移動全国調査」結果の分析を軸に、社会階層の固定化が進行してきている現状を報告すると同時に、その処方箋を提示している。
 特に、ホワイトカラー雇用上層とここで呼ばれている(要するにでかい会社の管理職以上ってこと)層で、団塊の世代以降、階層の相続が戦前並に閉鎖的に行なわれるようになってきてしまっていることが浮き彫りにされていく。同時に、プルーカラー雇用上層(専門技能を持った雇用された技術職)からホワイトカラー雇用上層や、独立した自営業へのキャリアパスが閉ざされることで、社会全体に閉塞感が広がっていることも指摘している(要するに、努力しても上に上がれない、という印象を社会全体が持ってしまうってこと)。
 ところが、ホワイトカラー雇用上層自身は、自分の地位が「実力」の反映であると考えている(実際には機会均等でない以上、これは親から受け継いだ環境が影響しているわけなのだが)。で、その実力に見合った責任を背負う、という方向に行けばまだよいのだが、社会的な安全弁として、その「実力」の最大の根拠である学歴について、そのものを否定する心理的圧力を常に受け続けることになる(駄目なのは君じゃなくて試験制度や受験戦争なのだ!、という形で競争から脱落してしまった層を心理的に支えるため)。で、「自分は試験ができただけ」(うう、身に覚えが……)という言い方をすることになってしまう。
 で、どうなるかというと、競争の勝利者としての果実は地位や収入という形で受け取りながら、勝者であることの責任は負わない(この競争は正当性の欠けたものなのだから、自分は運が良かっただけ)、ということになってしまう。こうした変化が団塊の世代で明らかになっている(団塊の世代が悪いわけではなくて、単に変化の最先端に立ってしまった、というだけなのだけれど)、というのは、実感として、わかる人も多いと思う(団塊の世代で起こった変化だということば、その後の世代にも共通している可能性が高い、ということでもある。若い世代は他人事だと思わないように。(自戒を込めて)念のため)。
 起こってしまった変化は、ある意味取り返しがつかない(階層間の流動性の高さ、といった機会の均等は、後からしかわからない、と著者も書いている)。けれども、ここで明らかに機会の不平等がある以上、この問題を解決しないかぎり、社会に活力など生れない(著者も指摘しているが、IT革命とやらは、親がそうした技術に触れているかどうか(あるいは家庭にそうした機器が持ち込まれているかどうか)、という点を通して、このままでは確実に階層の継承を強化する方向に働くだろう)。市場にまかせろ、といったって、そもそもスタートラインで差がついた状態で市場に任せれば、それは公正な競争とは程遠いものにしかならない。
 では、どうするのか……というわけで、著者はいくつかの可能性を提示しているのだけれど、それは実際に読んでもらったほうがいいだろう。
 ちなみに、内容とは直接関係ないのだけれど、あとがきがめちゃめちゃ泣かせる。研究の成果は個人から独立した価値を持つものかもしれないなけれど、研究という営為そのものはどこまでも個人のものなのだ(だからこそ、面白い)。
 蛇足だけれど、本書でも紹介されているけれど、「社会階層と社会移動全国調査」をベースにした研究は、『日本の階層システム』というシリーズとして、東京大学出版会から刊行が開始されている(店頭に既に並んでいた)。ご参考まで。

2000年7月17日

 佐々木力『科学技術と現代政治』(ちくま新書, 2000)を読んで、どう評したらいいのか考え込む。
 マルクス主義、と聞いただけで拒否反応を示す向きには到底勧められない。マルクス(そしてレーニン、トロツキイ)の思想の持つ力は、現在でも有効だ、という、信じられないほど前向きな姿勢を、どう評価するかで、感想はまっぷたつに分かれるような気がする。もちろん、ここで語られているマルクス主義は、いわゆる教条主義的な(「資本論にこう書いてあるからこれが正しい」みたいな感じ)マルクス主義とは別物ではある。が、労働組合主催の講演で、「兄弟!」と呼びかけるセンスには、うーむ、とうなってしまうのだ。
 基本的には講演集なのだが、加筆や注記の追加など、様々な手が加えられていて、単純な講演録には終わっていない。特に初出が岩波の『思想』(1999年11号(通巻905号))の第二章「西欧の科学革命と東アジア」(さらに増補されている)は、科学と帝国主義の関係を考えるには絶好の入門編。読書ガイドとしても使える詳細な注記が嬉しい。後は、第三章「脱原子力への道と現代日本の技術政策」で炸裂する米本昌平批判は米本ファン(?)必読。二人の立ち位置の明確な違いがわかる。

 斜め読みだけど『大航海』2000年8月号(no.35)を対談を中心に読む。
 特集は「1990年代」というわけで、この10年を総括しちゃうおう、という話。宮台真司×東浩紀、大澤真幸×宮崎哲弥、村上龍×金子勝、という三本の対談だけでもう満腹、という感じ。どれも特に明確な対立軸がない二人の対談なので、緊張感には欠けるような気もしなくもないが、議論がすれ違いまくる、ということもないので、まあいいか。
 なんというか、まとめての要約は私の能力では到底不可能なのだけれど、あえて共通点を見つけるとすれば、引き返し不能な転回点を回ってしまったという手触り、と、その手触りに何とはなしに関わっている団塊の世代、という存在、かもしれない。その意味では、新中間大衆と現代思想とのかかわりを論じた佐藤俊樹「透明な他者の中で――言説の閉域と階層の閉域と」がままさしく、一冊のど真ん中に置かれているのは象徴的(同じ著者の『不平等社会日本』(中公新書, 2000)も同時に参照のこと)。編集者の意図的な配置かな?
 もちろん、『戦争論』の話とか、「J回帰」の話とかもそれぞれの対談には出てくるので、そのあたりに関心がある人にもお勧め。
 あ、後、藤本由香里「〈私〉探しの時代――予兆としての少女マンガ」もあり。90年代を特徴づけるのは双子と前世だ、という切り口はさすが。でも、最後は少女マンガ以外の作品に話が展開していってしまうので、本当にそれが少女マンガに特徴的なことだったのかが、何だか見えなくなってしまう。ちょっと欲張りすぎでは……。

 関係ないけど、bk1、24時間以内発送のものを午前中に頼んだら、その日の夕方には届いていた。きちんと物流がらみを考えてシステムが作られているんだなあ、と感心。でも、歴史のコーナーはもっと充実させてほしいと思ってしまう。どっちかっていうと人文系が弱い気がするなあ。

2000年7月13日

 いつのまにやらオンライン書店bk1が開店。
 書評とコラムの充実ぶりにはびっくり仰天。原稿料だけでも結構な初期投資なのでは……などと余計なことを考えてしまった。こんなとこにへろへろ書いても意味ないなあ、という気も(でもまだへろへろ書くんだろうけど)。
 ちょっと残念なのが、分野で階層を降りて一番深いところまでいっても、分類によっては数千冊出てきてしまったりするところ。一度に10件ずつで、数千件は見られないよなあ。まあ、まだ平積みや特集棚が整ったところ、というところかもしれないので今後に期待。日本のオンライン書店はどこも、分類の深度が浅いために、分野別検索は件数が多くて使い物にならない、という欠点をしょいこんでいる気がするので、なんとかそこを乗り越えて欲しかったりする。やっばり、あんまり人が注目しない、背表紙しか見えないような棚まで作り込んでこその書店であってほしい。というか、そういう書店がほんとにほしい。

 余談だけど、7/11のところでYS-11のことを書いたのだけれど、NHK 総合の『プロジェクトX』でYS-11ネタをやったみたいですな。来週が後編らしいので、見てみようかなあ。

2000年7月11日

 ようやくめまいから回復してきたけれどもなかなか完全復調しないのがつらいところ。
 とりあえず、最初にリハビリで読んだのが、前間孝則『最後の国産旅客機YS-11の悲劇』(講談社+α新書, 2000)。新書とはいっても、いわゆる普通の新書よりも一回り大きくて、その分、字がでかくて読みやすいのがへろへろな頭にはうれしい。
 朝日新聞か何かでほめられていたので読んだのだが、確かにこりゃ面白い。産官共同で始まった国産旅客機開発プロジェクトが、一時は国民の喝采を浴びながらも最終的に政治的に強引に幕引きをされてしまう過程を描いているのだが、国と企業の合同プロジェクトに少しでも関わっている人は必読、という感じ。予算取りのために総花的な計画を作ったはいいけど、実際にやるとなったら全面的が見直しが必要になって大騒ぎ、とか、笑えない話がずらずら出てくる。
 そんな状況だから、当然、最初のころは、実績ないから売れないは、買ったはいいが雨漏りするわで、てんてこまいするわけだが、ユーザーサイドである航空各社と技術者側の情報交換がうまく回り始めたあたりから事態は好転。未だに現役で飛べるほどの信頼性を獲得するようになる……のだが、その頃には累積した赤字が政治問題化。負担を最小限にしたいメーカー側と、批判を避けたい国の間に挟まれて製造をうけおっていた特殊法人は解体されてしまい、貴重なノウハウは宙に消えた。
 ……と思いきや、YS-11に関わった人たちは自分たちでプロジェクトの記録を作り、そのノウハウを後世に残してくれた、という泣かせる展開。が、しかし、そのノウハウは、似たような経緯と性格を持ったH2ロケットの開発には(おそらくまったく)生かされていない、というのがまたさらに泣けるのだった。
 昔の話のように見えるが、実は恐ろしいほどに「今」の話なところがすごい、としみじみ。

 科学技術がらみでもう一冊。村上陽一郎『科学の現在を問う』(講談社現代新書, 2000)も読んだ。講談社現代新書の記念すべき1500点目。
 19世紀に確立した現代的な意味での自然科学が、20世紀に(特に第二次大戦を期に)いかに変質し、そしてその変質が科学者自身にも、社会的にも十分認識されていない、というところから説きおこして、1999年の三点セット(JCO臨界事故、新幹線トンネルコンクリート剥落、H2打ち上げ失敗)を皮切りに、安全、医療、情報、教育など、現代的な問題に切り込んでいく。
 基本的には、科学がパトロン(というか出資者というか)から独立した、研究者自身の好奇心に基づく自由な研究活動である、という、未だに何となく残っている科学観は19世紀の遺物でしかない、という話と、社会と科学技術との関係の根深さから生じる倫理的問題、というのが焦点か。
 特に、クローン問題の明快な分析や、科学技術と倫理の問題を論じた部分などは、相変わらずの切れのよさ。脳死の問題は、個人的感覚から説きおこしているせいか、今一つ切れが甘い気もしてしまうのだけれど、問題提起自体は重い。
 とても読みやすく書かれているので、軽い本に思えるかもしれないけれど、科学というよりは現代の社会について考えるための基本的な問題を提起した本だと思う。
 直接関係ないけど、問題なのは、若手の科学論研究者が、現代の状況に対して、今一つ効果的な発言をなし得ていない、ということなのかも……などと考えてしまったのは余計な話か(『現代思想』と『思想』の枠から出るのは難しいのかなあ)。


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