読書日記のページ

2000年3月

2000年3月14日

 おお、なんとまるで日記のようなペースだ!……って本来そういうページだったんじゃ……。

 それはさておき、日下翠『漫画学のススメ』(白帝社, 2000)を読み終わっていたのに書くのを忘れていた。
 正直なところ、看板に偽りあり、というか「漫画学」という言葉を看板にしたにしてはちょっと拍子抜けした感じ。が、刺激的な部分も結構ある。
 特に、第I部の「漫画で読む文化――少女漫画と少年漫画」の部分は、少女漫画と少年漫画それぞれに描かれた恋愛観を中心に、男女の恋愛観の擦れ違いを論じていて面白かった。残念なのは、特に少女漫画を論じる部分で、漫画の作品そのものを使って論じた部分よりも、漫画について論じた著作や、恋愛に関する議論を引用してきて論じた部分の方が面白いというところ。というか、うまく表現できないのだけれど、漫画について論じた部分が、浮いてしまっているような感じ。漫画論としてではなく恋愛論としては、刺激的だと思うのだけれど……。男女それぞれが、別々の理想的な恋愛観を植えつけられている以上、すれ違うのは当然、という結論にはフムフムである。
 第II部の少女漫画の作品・作家紹介も、何かもどかしさが残る。作品の取り上げ方のムラ(最近の作品を選ぶ、というわけでもないみたいだし)があったりするのは、なんとなくは気になるが、作家の選択については別に文句はない(偏っているとは思うけど)。何か、あらすじの紹介に引きずられて、作品のインパクトを語り損ねている感じがするんだけど……。それとも、自分の読書体験を強調する部分と、作品そのものの社会的(?)インパクトを語る部分のバランスの問題なのかなあ。
 第III部はちょっと話が変わって、東アジア各国の漫画事情の紹介である。情報としては面白いんだけど、個々の作家の名前とか、さっぱり頭に入ってこない。色々な作品、作家が紹介されているのだけれど、ずらずら並んでいるだけに見えてしまう。やっばり、作品そのものに触れないと駄目ってことなのか……。
 というわけで、全体を通して、どうしてもまどろっこしいというか、隔靴掻痒というか、何か物足りない感じがつきまとう。
 何なんだ、これは、と考えた。で、結論。多分、これって、漫画を言葉で語るという難しさそのものの現れなんじゃなかろうか。漫画でしか描けないものが描かれていればいるほど、それを言葉で語るのは難しくなるだろう。もし、漫画学、というものが本当にありうるとすれば、それは、漫画を語る言葉を手に入れるための知的活動、ってことになるのかもしれない。そういう意味では、まだこの本は「ススメ」といえるところにまでは、辿り着いてはいないような気がする。
 もちろん、絵画だって音楽だって映画だって、言葉で作品を語るための道具立てをそれなりの時間をかけて整えてきたはずだ。漫画を語る言葉を手に入れることができないはずはない、と思う。多分、著者もこの本で満足したりはしていないだろう。今後に期待(って自分ももうちょっと努力しないと……)。
 ちなみに、一番面白そうだった、中国と日本の伝統的な大衆芸能・文学の差異と、漫画における日中の差異の関係の部分が、ちょろっとヒント的に述べられただけで終わってしまっているのが惜しい。この部分を膨らませた続編が読みたいぞ。

2000年3月13日

 版元が直接ネット上で本を販売する、版元ドットコムというのが動き始めているそうだ。試験稼働は今月中だそうだけど、さて。

 何かずいぶんと置きっぱなしになってしまったのだけれど、ようやく『季刊本とコンピュータ』2000年冬号(大日本印刷, 2000)を読んだ。相変わらず、読み捨てるとこのない雑誌だなあ。凄い。
 冒頭、いきなり高橋源一郎「親指シフターの憂鬱」にニヤリ。まったくもって、親指シフターの夜明けは遠い(っていうか、もう来ないような気も……)。だけど、キーボードという手に馴染んだ道具なんだし、そう簡単には諦められない。少々高くついても、それが自分にとって必要な道具なら、金は出す(というか捻出する!)もんだ。というわけで、富士通とリュウドには頑張ってほしいと切に願うのだった。
 大場啓志・他「座談会・目録づくりを楽しもう」も楽しい。基本的には古書店の通販目録の話なのだが、目録や書誌作りの楽しさの根本が語られていて、またもやニヤリ。人の作ったデータにちょこちょこ手を加えてるだけでは、この楽しさは味わえないよなあ、などとふと思ったりもする。
 ああ、後半は面白すぎて、取り上げる記事に迷うが、まずは張軸材「『四庫全書』の新生」にびっくり。おいおい、もうそこまで行ってるのか……。『四庫全書』の全文検索なんて頭がクラクラしてくる。ここはやはり、群書類従をちゃんとせにゃあかんのではないかなあ……。
 あと、一番面白かったのが、枝川公一「版下職人、技術革命をかく戦えり」。一人の版下職人が現在にいたる技術革新の波をどのようにくぐり抜けてきたのか、という話をインタビューなどを元に(だと思う)まとめたものなのだが、仕事そのものと技術が直結していることの怖さと厳しさに身震いがくる。マッキントッシュに取り組んでみたはいいがまったくわけが分からず、「空を舞うヘリコプターを眺めながら、あのヘリ落ちてきて、この俺を殺してくれないか」とまで思い詰めたその人が、DTPの技術を駆使して様々な仕事をこなすようになっていく過程は、まさに苦闘。

マックで仕事ができるかどうかは、本間氏には人生の大問題であった。印刷技術の急激な変化に直面した人々の多くがそうであったように、「次の技術」に乗れなければ、それまでである。生きる死ぬも、明々白々。なんらの妥協も許されない。

 この厳しさを、本にかかわる多くの人がもっと感じるべき時が来ているのかもしれない、とも思う。
 あと、萩野正昭「異聞・マルチメディア誕生記」が最終回。一冊にまとまるのが楽しみ。こういう「変な」人たちによって時代は動いていくのだ。

2000年3月12日

 ちょっと前に気が付いていたのだけれど、書き忘れ。本と出版流通のページ出版流通交差点のコーナーに《谷平吉の出版流通コラム》─NO.32 2000/2/20として「戦後初めての取次ぎの破産「柳原書店債権者集会」」が掲載されている。取次崩壊の始まりなのか、それとも……。
 ところで、このコラム、本体より、他の人が書いた部分の方が長いような気が。他の回でもそういう時があるんだけど、なんだか不思議。

 奥本大三郎『博物学の巨人アンリ・ファーブル』(集英社新書, 1999)を読了。
 集英社新書の創刊10点のうちの一冊。著者は現在、『ファーブル昆虫記』の全訳に取り組んでいる(雑誌『すばる』に連載中とのこと)。フランス文学と昆虫の両方に造詣が深い著者だけあって、まさに適役。完結・刊行が待たれる……って全10巻読む気か、自分。うーん、連載で読んだ方がかえって読めるかなあ。
 本書は、ある意味で、全訳完成前に書かれたその解説、あるいは訳者後書き、といってもいいのかもしれない。これまでの日本におけるファーブルの翻訳にまつわるエピソードの紹介から始まって、ファーブルの生い立ちや、昆虫記にいたるまでの艱難辛苦と業績、そして昆虫記そのもののハイライトの紹介と盛りだくさんの内容である。
 例えば、大杉栄がファーブルに心酔して『昆虫記』の第1巻を翻訳した(その先を続ける前に、惨殺されてしまったのだが)なんて話は初めて知った。貧乏のどん底から這い上がってきたファーブルという人物の、反権威主義的な部分と共鳴した、ということなのかなあ。
 大学に属さず、市井に常にあり、学界からは反発もあった、というと、牧野富太郎を思い出すかもしれないけれど、いいとこの坊っちゃんだった牧野と違って、ファーブルの幼年期はひたすら貧乏だ。そこから這い上がるきっかけが師範学校だったわけだけれど、金銭的に恵まれない家庭で育ったものが学問を志すための装置としての師範学校、というのは、再評価されてもいいのかも、という気がしてしまった。戦前の日本で果たした役割とか、研究あるのかな? 気になる……。
 おっと、話がずれた。著者は、ファーブルの著作や方法論の背後にある、自然の奥深さに対する尊敬の念のようなものを重視して、遺伝子研究に血道を上げる現代の生物学を批判するのだけれど、これだけでは批判は届かないような気がしてしまう。遺伝子にこだわり過ぎて全体を見失うな、という批判はわかるのだけれど、それでは有効な研究プログラムの提案にならない。むしろ、相反するように見えるファーブルの方法論と遺伝子研究との間をどう結びつけるのか、という問題なのでは……。とは思うが、だからといってじゃあこうだ、とも言えないんだけど。

2000年3月11日

 NHK BSの怒涛のモンティ・パイソン攻撃にぐったり。ううう、全部見たいけど、TVシリーズ(第3シリーズに突入)見るのが精一杯。字幕だと、ながら見はできないからなあ。映画は後でゆっくり見るか……。

 という話はさておき、サイモン・シン著・青木薫訳『フェルマーの最終定理 ピュタゴラスに始まり、ワイルズが証明するまで』(新潮社, 2000)を読んだ。
 なるほど、全英ベストセラーになっただけのことはある。引きが上手い。五島勉もかくや、という具合に、核心部分であるワイルズの証明の話をチラチラと小出しにしつつ、ふっと話を歴史的なところに持っていくあたり、絶妙の匙具合。いったい続きはどうなるのだ、と気にしながら、ぐいぐい先を読まされてしまう。
 その上、数学的な知識は(あんまり)なくても分かるように書いてある(というか分からないところは上手く省いてある)し、数学的論理の説明のいくつかを補遺という形で収録して、読者の知的好奇心(と、この程度ならわかるぞ、という自尊心)を満足させるようになっているのがまたお見事。
 が、これだけなら手法の上手さだけで終わってしまう。本当に凄いのは、素人には分からないところは省きつつも、ワイルズの証明やフェルマーの定理に挑戦してきた人々が切り開いてきた業績の、数学という学問における重要性はきっちり描き出している、というところ(といってもその内容がどの程度妥当なのかは、私には分からないのだけれど)。何がどうなって証明されたのかはよく分からなくても、何故それがとてつもなく凄いことなのかは、分かるようになっているのだ。
 フェルマーの最終定理を巡る数々の数学者たちのドラマもいい。特に、「谷山=志村予想」の提唱者である、谷山豊と志村五郎の話は、谷山豊の自殺という悲劇が絡んでいるだけにドラマチックで、泣ける。さらにそこに、志村五郎が語る「良さ(goodness)の哲学」が絡み、数学におけるある種の「美意識」という、本書の中でも核心的な主題が展開される。この部分、ワイルズの証明が達成される瞬間と並ぶ、本書の白眉だと思う。
 コンピュータを利用した力ずくの証明(あらゆる場合をコンピュータ上で検証することをもって証明とする)が徐々に蔓延してきている現状を指摘して本書は幕を閉じるのだけれど、いろんな意味で一つの時代の終わりを描き出そうとした本なんじゃないかという気がした。ワイルズのような、良い意味での学者馬鹿は、出てくるのが困難な時代になっていくのかも。そうなると、こういう科学ジャーナリズム的な仕事も、つまんなくなっちゃうような気がする。この先、著者はどういう仕事をしていくんだろうか(次作は暗号に関する本らしいけど)。


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