読書日記のページ

2000年2月

2000年2月27日

 特に内容とは関係ないんだけど、スタイルシートを使って、このトップページを書き直してみた。ついでに、HTML4.0準拠、ってことで、多分、Strictといってもいけるんじゃないかなあ、という具合に書き直した……というか、Strictで許可されてない表現を全部省いただけなんだけど。
 その分、スタイルシート未対応のブラウザで見ると、以前よりも増して味も素っ気もないページになってしまった。でもまあ、読めるんだからいいか。テキストのみのブラウザで見る場合には、かえってすっきりして見えるかも。

2000年2月26日

 うむむむ。どうしても間があいてしまうなあ。反省。
 それはさておき、今回は本に関する本を二冊。
 一つ目は『別冊・本の雑誌13 図書館読本』(本の雑誌社, 2000)。現在の図書館(主に市町村立の公共図書館)について、『本の雑誌』流に解剖した、という感じの一冊。活字やレイアウトがいかにも『本の雑誌』というのがなかなかうれしい。
 1998年の秋に全国の図書館を対象に行われたアンケートの分析というのが一つの軸になっているので、ややネタが古い部分もあったりするが(これだけ時間がかかっていると、この本ができるまでにいろいろ紆余曲折がありそうで、妙にそっちの方が気になったりもする)、普段は見えない図書館の内側をのぞいた気になれるのはさすが。冒頭に図書館員の仕事の体験記を持ってきてあるのは正解だと思う。
 図書館をとりあげた本にしてはめずらしく、図書館員が置かれた状況にやけに同情的という気もしなくもないが、マナーを守らぬ不届きものに、鉄槌を下したくなるのは本読みなら当然。限界もあるにせよ、図書館というものをうまく使っていこう、という姿勢には共感してしまう。
 全体を通して読むと、地方公共団体の緊縮財政の煽りをくって予算削減の激しい圧力を受けながら、必死でサービスの質を維持しようという図書館員たちの努力が見えてくる。ただ、その一方で、公共図書館の発展の基盤となったという60年代の「中小レポート」の後、図書館の内側から新しいビジョンを打ち出すことができていない、という問題も実は背後に浮かび上がってきたりもする。住民あっての図書館だ、という心意気やよしだが、何のビジョンもなく、住民の中から支援の動きが出てきてほしい、といっても無駄なんじゃないか、という気もするので、これは結構、不幸な状態なのかもしれない。
 とはいっても、図書館の内側からの声が聞こえてくる、こういう本が出てくる、ということはまだまだ図書館も捨てたもんではない、ってことなのかな?

 もう一冊は、小田光雄『出版社と書店はいかにして消えていくか−−近代出版流通システムの終焉』(ぱる出版, 1999)
 こちらはもうタイトルどおり。出版界に身を置く著者と聞き手のインタビュー(というより対談か?)形式で、今の日本の出版・流通業界の構造的な問題点をえぐりだしまくる、という感じの一冊。
 昨年段階の情報をもとに議論が展開しているのだが、ほとんど予言者状態である。ここに書かれていることが正しいとすれば(で、説得力があるんだ、これが)文化通信でも伝えられているような、駸々堂の破綻日販の経営危機は、既に数年前から進行していた事態が表面化したにすぎない、ということになる。
 それでは、構造的な問題、っていったい何じゃらほい、という話になるわけだが、とりありず、ここでは一例を挙げよう。
 この本の中には、取次と書店をめぐり、様々な問題が取り上げられているのだが、その中の一つに開店口座問題、というものがある。開店口座とは何かというと、書店が新規出店する場合に、開店時の書籍(雑誌は除く)の支払いを取次が何年か猶予して、分割払いにするというもの。何年待つとか何回払いとか、そういうのは書店と取次との力関係で決まってくるんだそうな。当然、その待っている間、取次は出版社に対して、支払いを立て替えたりするわけだ。
 で、順調に本が売れて、書店から取次に支払いがなされればいいわけだけれども、例えば、猶予期間中に書店がつぶれてしまったらどうなるか。単純に考えれば、商品を取り戻せばいいだけの話なんだけど、そうはいかない。商品である本の方は、売れてしまったり、返品されてしまったりで、もはや店頭にはない。もろちん、売れたり、返品されれば棚があくので書店はその分また本を仕入れている。すると、書店の在庫を全部合わせても、取次への支払額に全然満たない、ということになる。
 もちろん、ガンガン書店が儲かっていれば別に問題はないわけだけれども、そんなことはちょっと考えられない。統計的に見れば、むしろ本は売れなくなってきている。ということは、普通に考えれば、どんどん書店はつぶれていくわけだけれども(実際、毎年数千店ペースで中小の書店はつぶれ続けているという)、逆にチェーン店ではどんどん店舗数がどんどん増えていっていたりするのである。
 何故かというと、グループ全体としての利益をとりあえず計上するために、出店することで開店口座を利用して借金先送りをはかっているわけだったりするのだ(取次側にとっても不良債権隠しになるし)。まさに自転車操業。これがコケるとどうなるかというと……不良債権となって、取次を直撃するわけなのだな。大雑把な試算では、取次の売掛金(書店側が支払うべき額)と書店の総在庫の差は1000億円になってしまうという。うーむ。
 まあ、こんな話がもっと丁寧に分かりやすく説明されるわけだ。どこまで真実かは、使っている統計資料などを吟味し直す必要があるのかもしれないが、可能な限り数字の出典は明らかにしているし、かなり説得力のある議論なんじゃないかと思う。
 ただし、こうした側面だけ見て、出版流通業界の内幕暴露本だと思って読んでは大間違い。開店口座のような問題はある意味で表明的な問題にすぎないわけで、著者は明治以降の近代の出版流通の歴史をたどりながら、再販制(どこで買っても同じ定価ってやつ)が特定の時代状況の中で成立したものであって、現在の状況とはすっかりずれてしまっている、という問題提起や、読者のあり方そのものの変化まで、論じていく。出版社や書店の社史や関連の各種団体史などを縦横に駆使して、近代出版流通業界史を論じているあたりが、実は本書の白眉かも。戦前の状況や、現在の二大取次の源流が戦時体制下の強引な取次の国策会社への統合にある、なんて話も初めて知った。うーん、戦後は終わってないねぇ。
 あと面白いのは、図書館を、コンビニエンス・ストアと並ぶ書店の「敵」という見方をしているところ。著者の見るところ、この両者は、本をじっくり読む読書人から、本をどんどん読み捨てていく消費者へと変わってきた読者のニーズに応える役割を果たしている、という点で共通しているという。
 その妥当性はさておき、大手の書店が潰れれば取次が潰れ、取次が潰れれば出版社が潰れる、という当前起こりうる連鎖がもし起こったとき、提供すべき本そのものが一気に入手困難になる可能性がある。当然ながら図書館にもその影響は及ぶだろう。本を住民に届けることそのものを目的にしてきた図書館は、提供すべき本がなくなってしまったとき、いったいどうなってしまうんだろう、などと思ったりもするのだった。うーむ。

2000年2月6日

 あまりに家の中に本が積み上がってきてしまって収拾がつかないので、市立図書館を使ってみることにした。が、しかし、借りた本は借りた本で期限内に読まねばならん、ということになってしまい、買った本は読めないまま。結局、家の中は全然片づかないのであった。ううむ……。
 で、自分で自分で買った本は脇において、その図書館から借りた一冊、黒田勇『ラジオ体操の誕生』(青弓社ライブラリー, 1999)を読んだ。
 タイトルだけ見るとラジオ体操の歴史に関する本のように見えるが、実際には、戦前のラジオ体操の成立と普及を一つの軸にして、ラジオというメディアが、どのように社会に受容され、社会に影響を与えていったのかを論じた本、という方がより正確だろう。
 コンパクトな本の中に、様々な切り口が詰め込まれているので、ちょいと消化不良を起こしそうだが、ラジオ体操という問題が持つ奥深さにはとにかくびっくり。
 たとえば、ラジオ体操の普及のために語られた言説などを見るだけで、そこには、社会進化論の広範な影響を見ることができるし(優れたものが勝ち残ることができる、だから日本人は体を鍛えなければならない、そのための手段としてラジオ体操は有効だ……ってな感じ)、あるいは、西洋人(の肉体)に対する劣等感とそれと裏腹の関係にある朝鮮・中国人への優越意識を読み取ることもできる、といった具合。
 さらに、ラジオ体操普及と関連して、後に(現在も)ラジオ体操と強く結びつく早起き運動や、保険衛生思想の社会への普及と政府の取り組みについても略述。もちろん、ラジオの普及についても触れている。
 個人的に一番面白かったのは、ラジオとスポーツとの関係を論じた部分。現在も日本で最も人気がある「野球」というスポーツが、高校野球と大学野球のラジオ中継を通じて、メディアイベントとして日本全国に受け入れられていった、という指摘とか、オリンピックもまた、ラジオを通じて日本人に受け入れられ、その中で国家意識との結びつきを強化する効果を発揮していくようになった、というあたりなど、テレビ(衛星放送を含めて)におけるスポーツ放送が抱え込んでいる「問題」は、ラジオの時代からあんまし変わってないんだなあ、という感じで面白かった。
 後は、大阪の新聞社や放送局の独自性の強さにもちょっと驚かされた。今でも大阪の新聞・放送の独自性は結構強いと思うけど、戦時体制下の強引な中央集権化がなければ、もしかするともっと面白いことになっていたんじゃないか、という気もしてしまう。もったいないことしたよなあ……。
 全体としては、最初は、農村から都市へと生活の場が変わり、個人の健康の維持がその個人や家庭の幸せを支えるものだ、という視点から始まったラジオ体操が、ラジオやスポーツの持つ様々な社会的影響力と絡み合いながら、むしろ国家への帰属や集団への一体化を強化する方法として定着していった、という話になるんだけど、同時に、西洋人との体格的な差異を、自分たちが劣っている、という形で意識した日本人が、それを克服する手段として、ラジオ体操にのめり込んでいった、という物語としても読めるようになっている。憧れの対象は、白人よりも黒人に移りつつあるような気もするけれど、日本人の基本的なメンタリティは、実はずっと変わってないんだなあ、という気もしてきたりして。
 さすがに索引はないけど、参考文献リストや注は充実。メディア論に関心のある人にとっても、戦前日本のメディア状況の入門編としても使えるような気がする。


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