1999年9月の読書日記


1999年9月20日

 ようやく、遅い夏休みをとったものの、なんだか家事に追われてしまう……。
 とりあえず、エリック・スティーブン・レイモンド『伽藍とバザール――オープンソース・ソフトLinuxマニフェスト』(光芒社, 1999)が本になって出たので買ってしまった。中身のほとんどは訳者のサイトで見られるんだけど、本になるとまた感触が違う。固定されたテキストとしての重さが生じる、などと書いたら大げさか? 逆にいえば、Web版の軽やかさには欠ける、ということかもしれない。良い悪い、ではなくて、端的に「違う」ということなんだよなあ。

 あと、つい買ってしまったのが、矢代梓『年表で読む二十世紀思想史』(講談社, 1999)。著者の遺作、というのに我ながら弱い(ちなみに著者、矢代梓は本名・笠井雅洋。笠井潔の兄なんだそうな)。山のような本(二万冊以上!)を買い込み、そのために書庫のある家を新築。新居に引っ越して二週間後に入院して、闘病生活を続け一年後に死去……。この話を読んで本書を買おうと思わない奴ぁ、本好きとはいえないね。うん。
 著者の遺稿に加えて、解説として今村仁司「笠井「二十世紀思想史年表」のおもしろさ」も収録。とりあえず、ぱらぱら眺めただけでも、何だか楽しい。その時点その時点での思想状況が、人物を中心にして描かれていて、しかも、ちょっとしたエピソードも盛り込まれていたりする。読む年表、ってやつですな。ちなみに、シリーズ「現代思想の冒険者たち」の姉妹編、という売り文句だけど、それなら、装丁も少しあわせりゃいいのに……と思うのは私だけ?


ウィリアム・F・バーゾール『電子図書館の神話』(勁草書房, 1996)

 以前から読もう読もうと思いつつ、何だか機会を逸してきたのだが、職場の知人から勧められたのを機会に、ちゃんと読むことにした。
 要するに、図書館員は図書館という場に縛りつけられるのではなく、情報提供のためのエキスパートになるべきであり、知識や教養を得る機会を提供するのではなく、情報をネットワークを通じて提供することこそがこれから図書館員が果たすべき役割なのだ、といった「神話」が、どのように形成され、その背後にあるのがどのような政治的な思想であり、それに対して、どういった別の選択肢があるのか、という話。
 基本的にアメリカでの話なので、特に後半の「電子図書館の神話」が出てきたところとは別の伝統が図書館にはあって、それの発展形を目指すべき、という議論は今一つピンとこない。あくまでアメリカの社会的政治的伝統の中での話だから当たり前なんだけどね。
 ただ、前半の、「神話」形成過程の分析はべらぼうに面白い。この「神話」が、図書館の世界の外からどのように生じて、どのように図書館界で受け入れられていったのか。その学問的な背景は何か、社会的背景は何か。情報化社会論や「第三の波」といった議論との関係などなど……。結局明らかになるのは、図書館は電子図書館を目指すべきだ、という「神話」は、理論的必然ではなく、様々な動きの中で作られてきたものである、ということだ(まあだからこそ神話なわけだが)。
 ちょっと本書の内容とは離れるけど、問題はこうして作られた「電子図書館の神話」が日本においてどのように受容され、発展したのか、ということだろう。例えば、国内でも様々な電子図書館プロジェクトが行なわれているが、その主体によって、内容はかなりことなる。大学系のものだけを見たって、大学の研究室レベルの研究、大学図書館のサービスとしての実践、学術情報センターの電子図書館サービスとその内容と目指すものは様々だ。これに加えて通産省系の団体(情報処理振興事業協会とか)、郵政省系の団体(新世代実験網実験協議会とか)、科技庁系の団体(科学技術振興事業団とか)、あるいは国立国会図書館がそれぞれ、あるいは他の団体や機関と連携しながら電子図書館に取り組んでいる。それに加えて草の根レベルでの動き(青空文庫とか)ももちろんある。
 本書によればアメリカでの電子図書館論については、明確にその出自を学術情報(特に論文)の迅速な提供というところに求められるようだが、日本での展開はそう単純にはくくれそうもない。いったいこりゃなんじゃい、というのを誰かが明らかにしておかないと、早晩訳が分からなくなるだろう(既になってるか)。本書の著者のように政治思想に直結させてしまうのは、ちとどうかなという気がするが、例えば、通産省、郵政省がからんでいることから見て、日本の電子図書館においては産業界の意向が強く働いているように思える。それが悪い、とはいわないが、せめて自覚的になっとかないと、誰のための電子図書館か、というのがあっという間にすっとばされてしまうだろう。図書館情報学の人たちはそういう問題意識とかって持たないのかなあ……。
 それと、そもそも学術情報の共有という目的から発想が始まっている電子図書館が、たとえば出版文化や著作権と相性が悪いのは当然、という気もする。よって立つ基盤がそもそも違うよね。この壁を越えたければ、ちゃんと歴史的にそれぞれの概念や思想や制度がどのように成り立ってきているのか、くらいの視点はないと駄目なんじゃなかろうか。単なる経済論や法律論でいくらやりあっても(問題点は見えるだろうし、現実的な対処としてはとりあえず必要だろうけど)、新しいものは生れてこないだろう。
 まあ、そういう意味で、内容については文句もあるが(電子図書館に対しては「神話」という言葉を強調するが、著者が主張する別の選択肢やその源流についてはあまり「神話」という言葉を使わなかったりする)、刺激的な本であることは間違いない。少なくとも考えるヒントは色々与えてくれる。問題は、本書が出てから(翻訳が出てから、という意味ね)三年もたつのに、同じような問題意識を持って日本の現状を捉えようとする動きが見えない(実はあるのかな?)、というところか……。
 あと、装丁がかっちょ悪いのは何とかしてほしい。どうして図書館関係の本(教育関係の本もそうだが)って、みんなかっちょ悪いんだろう。実は図書館関係者って本が嫌いなのかなあ……。


野矢茂樹『無限論の教室』(講談社現代新書, 1998)

 これまた人に勧められて読んだ本。一気に読める手軽な一冊だが中身は濃い。
 無限を巡る様々な議論を、ややこしい説明をとっぱらって、できるだけ分かりやすく説明しつつ、その上で自分の問題意識も展開しちゃう、という美味しい展開。対角線論法と自己言及、という議論が新鮮……なのは私が無知なせいか? ついでにいうと、私が読んだゲーデルの不完全性定理の説明の中では、本書のそれが一番わかりやすかった(少なくとも、どういう戦略で何を証明したのか、ということについて初めて分かった……気がする)。
 しかし、一番楽しくて、本書の魅力になっているのは、その語り口だろう。
 本書は一応、一人称小説風の作りになっている。主人公で一人称の話者である大学生「ぼく」と、たまたま同じ講義を取ったタカムラさん、そしてたった二人の学生しか受講者がいない講義をする先生タジマ、この三人が登場人物だ。話は、タジマ先生の講義を「ぼく」とタカムラさんが受ける、という形で進んでいく。結構理解の早いタカムラさん(ケーキを五個までなら食べられるという特技(?)を持つ)と、生半可な知識で質問に答えてしまっては「愚劣」だの「最低」だの先生につっこまれながらも徐々に無限を巡る議論に惹かれていく「ぼく」、そして奇矯なれど愛敬のある先生タジマ。
 あとがきで著者も書いているが、これはどこにも存在しない、ある意味理想の大学の風景だ。自由に自らの視点から問題点を明確にわかりやすく説明する先生と、少人数でしかも先生と丁々発止のやりとりを厭わない学生たち……。もちろん講義は教室ではなく、先生の研究室でお茶を飲みつつ、お茶菓子を食べながら。
 この風景を楽しそうだと思う人は、本書を楽しめるはずだ。少なくとも読んでいる間は、理想の講義体験を堪能できる。
 もちろん、ちゃんと読めばそれなりには無限論の入口くらいには立てる……んだろうなあ……。メタファーが的確、というか分かりやすいので私も分かった気にはなっているけど、私が本当にどれだけわかっているかはそれこそタジマ先生のみぞ知る……。


『季刊・本とコンピュータ』1999年夏号(大日本印刷, 1999)

 夏号なのにもう秋になってしまった。積ん読も大概にしないとなあ……。
 ちょっとだけリニューアルして、薄くなって特集がなくなった(その分別冊が出ているのだった)。が、あんまり読後感が変わらないのは、編集者側のスタンスが一貫しているからなんだろう。えらい。
 個人的に面白かったのは、まず木田元「文系の読書とコンピュータ」。哲学の分野に置ける思考の訓練としての読書(と翻訳)の実例を紹介する。こういう「読書」を「情報」を軸にして語るのはやっぱり無理があるよなあ、と思わず考えこんでしまった。考えてみれば、私も「情報」が欲しくてする読書と、そうでない読書の両方をやっている。なるほど、情報の流通こそが全て、みたいな議論が出てくると居心地が悪いのはそのせいか。
 あと、萩野正昭「異聞マルチメディア誕生記 外伝その一 アリーン・スタインの奮闘と挫折」の中の一節にぐっときてしまった。ちょっと長いけど引用。

 電子出版というものに人がどのように対応していくのかを、私はずっと見てきた。私自身も含めて、私が見てきた姿は皆みすぼらしかった、皆がひねくれていた、明るくはなかった、悩んでいた、病んでさえいたかもしれない。それがどうしたと思った。この時代においてひねくれたり拗ねたりすることのどこが悪いかと思った。むしろ続々とやってくる人々の影に、電子出版が果たさなければならない使命のようなものを見て力強さを感じた。たしかに、算盤をはじいているとむなしくなった。利を求めるならこんなものはさっさと捨てただろう。それなら算盤のほうを捨てればいい、それだけで皆がすっかり元気になるのだ。

 堅実な生活を送ることや、上手く儲けることや、業績をあげることや、身だしなみを整えることや、立派な人物になることよりも、人を惹きつけてしまう新しい何かというのはあるし、「まっとう」であることを捨てて、それに惹きつけられてしまう人がいるのだ。そして、新しい何かは、そういう人たちがいて、初めて形になっていく。変なものを作り出す人は、必ずどこかが変な人なのだ。
 今やすっかりお役所言葉になってしまった「マルチメディア」や「電子出版」が、どういう人たちから生れてきたのか、忘れてはいけない。新しくて、面白いものを作ったのは、今それをお題目として使っている人たちではないのだから。
 そして多分、次の新しくて面白いものを作り出すのも、ひねくれ、悩む、病んだ人たちなのだろう。世界はそうして変わっていく。ただ、その変化についていくことすらままならないことが、少し悔しい。


1999年9月11日

 とうとう一月以上更新しなかった。むー。夏の某イベントのせいもあるが、とにかく本が読めないのがつらい……。
 何はともあれ、西村三郎『文明の中の博物学』(紀伊国屋書店,1999)が出たのはめでたい。と、いいつつも、ストレートな東西比較という方法論にはやや疑問もあるのだが……(何故、日本は西洋ではないのか、という問いになってしまっているのではないかという疑いが……)。うーん、ちゃんとした評価は読んでからだなあ……って、いつ読めるのやら。やれやれ。


岡田猛他編著『科学を考える 人工知能からカルチュラル・スタディーズまで14の視点』(北大路書房,1999)

 科学という活動、あるいは「科学すること」を対象として研究を行なっている若手(なのかな?)研究者たちによる、学際的論文集……と、要約すればこうなるかな。
 科学の現場で行なわれる推論過程がどのようなものなのか、という問題に対する心理学的アプローチも面白かったし、図書館情報学的な科学活動において情報がどのように形成され、流通するのか、という話もこれまた楽しい。
 オートポイエーシス的なシステム論を持ち込んだりするアプローチもあれば(微妙に差異を含んだ論文が次々と生成されていくシステム、という形で記述することで、ジャーナルを軸にした「分野」の形成が記述できたりするらしい。こりゃおもろい)、今はやりのカルチュラル・スタディーズもあるし、科学社会学、科学哲学もある。
 と、こういう内容だと、おのれ社会構成主義者めーっ! とお怒りの貴兄もいたりするのかもしれないが(ラトゥールの論文の翻訳もあるしなあ)、全体的な論調としては社会構成主義(めちゃめちゃ大雑把にいうと、科学的「事実」ないし「真実」は、社会的な文脈の中で作られたものに過ぎず、それが「正しい」という原理的な裏づけなどない、といったようなお話……だと思う)に対しては冷淡、というか、一緒にするな! という強い意思を感じる。物質的世界とそれに関する知識との間の整合性はあるのだ、という前提を共有した上で、なおかつ、科学そのものは人間のやることである以上、その知識のあり方そのものは、社会的・文化的・心理学的文脈の中で規定されてくる、という論を立てようとしている感じか。
 まあ、ソーカル事件(……って何だ、という方は、黒木玄さんのサイトここを見るのが一番手っ取り早くて詳しい)以降、科学社会学やCSS(Cultural Studies of Science)は、科学者側からの批判に曝されているようだから、あえて強調しているのかもしれないけれど、特に最後の方の科学哲学からのアプローチは、そのあたりのことが明確に意識されていて面白い。いわゆる認識論的な問題(自分のことは自分でわかるけど(我思う故に……というやつ)自分の外のことはどうやってわかるんだろう)の設定の仕方そのものが、哲学を科学の上位に置こうとする、哲学側の仕掛けであった、なんて話も飛び出したりして、結構刺激的。
 第一線で活躍する科学者へのインタビューがあったりとか(インタビューのおこし方に精粗があるのがちょっと……だけど)、できるだけ多角的なアプローチを提示して、「科学」という営みが、今どのように問題として意識され、研究されているのかという見取り図を読者に与える、というコンセプトが一貫して貫かれている感じ。編者のセンスだよなあ、こういうのは。お見事。
 各論文は、できるだけそれぞれの分野(アプローチ)の素人にも分かりやすく、というのを意識して書かれている。基本的には、執筆者それぞれの研究テーマを分かりやすく解説する、というものが多いが、同時に、先行研究の流れみたいなものも適宜押えられいるので、いわゆるレビュー論文的な読み方もできるものも多くて助かる。色んな意味で便利な本だなあ。


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