1999年6月の読書日記


1999年6月26日

 うーむ。また本が読めない……。波があるなあ。
 先日、The Official Yamagata Hiroo Pageを見ていたら、「女の子のためのおたくガイド」なる論文を発見。
 こいつは全独身女性必読だ!……というのはまあ冗談にしても、訳者ノートも含めて、色々な意味でしみじみとした味わいがある。おたく論に関心のある人は必読。それにしても、楽しすぎる……。

 『マックパワー』1999年7月号を見ていたら、戸島國雄「それは世間によくある話」(川崎和男のコラムと並んで私が楽しみにしている連載エッセイ)が、出版業界の危機について触れていた。新刊の店頭露出期間が1週間を切っているという話に愕然。絶望的な状況だなあ。
 内容は、インターネットが、読者を得る機会損失への対抗策になりうる、という話が一つ。が、重要なのはもう一つの話。アスキーが独自に開発した編集・出版システム、EWB(Editor's Work Bench)がこの話の主役だ。
 独自の書籍一括レイアウトシステムについて紹介するだけなら、別になんてこたあない。だが、アスキーは、このシステムをソースコードも含めて、無償公開するというのだ。これは凄い。
 もっと凄いのは、このシステムが、10種類程度のコマンドを覚えることで使いこなせてしまう上に、TexベースでFreeBSDかLinux上で動いてしまうってことだ。なるほど、これなら無償公開にも意味がある。中小の出版社でも、初期コストをそれほど掛けずに導入することが可能なはずだ。レイアウトしたデータはPostScriptに変換したり、PDFにすることができるという。電子出版や、オン・デマンド出版との親和性も高そうだ。
 そのうえ、「近々、出版社のさまざまなニーズの受け皿になるようなコンソーシアムを組織して発表する予定」なんだそうな。合い言葉は「欲しい時に欲しい本をお届けする」。まだ始まってもいない話なわけで、評価も何もしようもないが、こりゃ楽しみな話だ。要注目だろう。
 実は、このシステムのサポートで、アスキーが儲けようとしているだけだったりするのかもしれないけど(考えすぎ?)、出版業界に新しい動きを起こす可能性はあるような気がする。とりあえず、動きを見守りたい。
 「出版社が潰れるということは、文化が1つ消えるということだ」。この言葉は、やはり重い。


1999年6月12日

 読んでも読んでもまた新たに本を買ってしまう日々。うーむ。
 とりあえず、書物復権で出た、アレクサンドル・コイレ『コスモスの崩壊――閉ざされた世界から無限の宇宙へ』(白水社,1999)は買いだ!


サイモン・ウィンチェスター『博士と狂人 世界最高の辞書OEDの誕生秘話』(早川書房,1999)

 ここに出てくるOEDはもちろん、泣く子も黙るあのOED、Oxford English Dictionaryのことだ。というわけで、本書は、完成までに70年の歳月を費やしたあの大辞典編纂事業に関わる、ある劇的なエピソードを二人の人物を軸に語ったドキュメンタリー、ということになる。
 とにかく冒頭から引くわ引くわ。OED編纂主幹を勤めたジェームズ・マレー博士が、数々の単語の用例を的確に送ってくる謎の協力者、ウィリアム・マイナーの元を訪れようとする場面で、いきなり読者は話に引きずり込まれる。何と、マイナーが住んでいたのは……。
 と、いう始め方そのものが、実は著者の巧妙な仕掛けだったりする。読めばわかるが、うーむ、やられた、という感じ。
 ただ、この題材自体の面白さを考えると、ここまで「引き」の仕掛けをあちこちに用意する必要があったのかなあ、という気もする。辞典編纂開始までの道のり、そして編纂途中の挫折と再生、数々の問題とその解決、この部分だけでも十二分に面白い。
 コンピュータなどもちろんない。手書きの(そして後にはタイプライターで打たれた)カードと、自らの記憶力と知性を武器に、無限にも思える単語の一つ一つについて、用例によって意味の変化の歴史を解説していく作業に、それぞれの人生を賭けて没頭していった人々の群像……。どう考えてもこの長さでは物足りない。もっと読ませろー、ってな感じである。
 ただ、けれん味たっぷりの描写や、適度な省略こそが、本書を全米ベストセラーに、そして映画化(帯によるとメル・ギブソン主演だそうな)へと導いたのだろうなあ、というのもわかる。多分、これ以上突っ込むと、素人には難しすぎる本になってしまうのだろうし、あんまり淡々とした描写だと読者が飽きてしまうってことだろう。しかし、著者は相当詳細に調査し、取材している感じ。もったいない。何を書かないかが、著者のセンスってものかもしれないが、それにしてももう少し書いてくれてもいいのに……。と、思うであろう一部読者のためにか、参考文献の紹介がちゃんとあるのがよい(ちゃんとそれを省かなかった訳者も出版社もえらい)。でも、みんな英語だ……(当然ながらどれも翻訳なんてないよなー)。
 ところで、著者は、OEDの印刷に使われたプレート(オックスフォード大学出版局に勤めていた友人からもらった原版)を一枚持っているそうだ。そのプレートと、そこから手作りの紙に刷り出したものが、著者の部屋の壁に掛けられ、そして、その下には、OEDのまさにそのプレートで印刷されたページが開かれて置かれているという。この光景を思い浮かべて心震える人は、必ず読むべき本だろう。


川崎和男『デザイナーは喧嘩師であれ 四区分別デザイン特論』(アスキー,1999)

 『マックパワー』連載中の「デザイン・トーク」。その1995年11月号から1998年4月号までの2年半分をまとめたものである。
 この連載が終わったら、『マックパワー』読むのやめてしまうかもしれない。と、思うくらい、私はこの連載が好きだったりする。

 未来は、もう、明るくはない。未来はカオス(混沌)なのだ。未来は死に向かっている。
 でも、夢がある。夢を抱くことほど素晴らしいことはない。
 人間は欲深くて、不平等で、いやな奴が本当に多い。でも、夢のある人間は好きになれる。
 努力は決して報われない。でも、精進と修練を諦めない奴は素晴らしい。

 こうした言葉の力強さに、何度救われたことか。
 著者のように片っ端から喧嘩を売りまくる(?)生き方はちょいとできそうにないが、危機感と、怒りを、前向きなエネルギーに変えて、突き進み語り続けるその姿には、いつも感動してしまう。
 ちなみに、本書連載中に、著者はフリーの(という表現でいいのかな?)デザイナーから、名古屋市立大学芸術工学部教授となった。何しろ自称「喧嘩師デザイナー」である。大学という場での(「との」、かな)戦いの記録になるのも当然。大学人や公務員必読の話も多い。特に備品調達の話など、考えさせられることが多かった。確かに、自分のところの製品を知らない営業は多いよなあ(新人の研修を納入先で平気な顔してやったりしてたメーカーもあるしね)。
 バリアフリーに関しても、著者自身が車椅子生活だけあって、JR批判など徹底的だ。そういう視点から読んでもいいだろう。
 でも、何より、その言葉の力強さそのものを味わうのが、正しい読み方のような気がする。少なくとも、凡百のビジネス書や人生訓なんぞよりも、ずっと(はるかに!)力になるだろう。
 デザイナーという生き方を生きることは、自分にはできないけれど、そこから学ぶことは、できるはずなのだから(もちろん、一番大切なのは、何をなすか、なのだけれど)。


1999年6月10日

 投げ銭ワークショップのレボート&報道リンク集に、載っけてもらっちゃいました。この反応の早さが、ネットワーク時代の速度、なんだろうなあ……。
 それにしても、私のは単なるコメントにしても不親切の極みであったと反省しきり。リンク集行って、富田倫生さんのとか、猫乃電子出版/田辺浩昭さんのとことかを見てみてくださいませ。レボートとは、こういうものをいうのですな。


1999年6月6日

 今日は、『「投げ銭システムをすべてのホームページへ」決起集会+ワークショップ』に行ってきた。会場は東京飯田橋のシニアワーク東京。午後1時から4時半までの長丁場+懇親会である(投げ銭システムって何じゃらほい、という方はこちらをご覧下さいませ)。
 多分、ちゃんとした報告は別に出るんだろうと思うので、詳しい中身の紹介はやめておく(そもそもメモも取ってない……)。てなわけで、印象批評のみを手短に(まだ酔いが覚めきってないし)。
 どうやら、「投げ銭」に関心のある人には少なくとも三つのタイプがあるらしい(もちろん、一人の中に複数の要因を持っている場合もあると思うけど)。
 一つ目は、「投げ銭」をビジネスモデルとして捉えて現実的・制度的問題から解決策を探って行こう、というタイプ。当然ながら少額決済の可能性と問題点に重心を置く。
 二つ目のタイプはというと、「投げ銭」に知の生産を支える新しい枠組みとしての可能性を見出している(私もこれかな)。だから、少額決済の制度的問題点よりも、コミュニティの形成とか、そっちの方に関心が強い。
 もう一つは、一つ目のタイプにちょっと近いかもしれないけれど、ビジネスうんぬんというよりは、こういうものがあれば便利だ、という(ある意味素朴な)実感から「投げ銭」の可能性を探ろう、というタイプだ。
 別にどれがいいとか悪いとかいう話ではなく、それぞれがそれぞれの問題意識で議論をすればいいのだけれど、これが一つの運動となったときには、多分、第一のタイプと第二のタイプの間での意志疎通がうまくできるかどうかが、鍵(の一つ)になるような気がする。車の両輪みたいな形でうまく回ると、潜在的に多数存在するであろう、第三のタイプの掘り起こしにもつながるんじゃないかなあ。
 で、普及するかどうかの鍵を握っているのは、やっばり第三のタイプだよね、きっと。その実感と乖離しないような形で議論や実験を進めることができれば、結構、面白いことになるんじゃなかろうか。
 今日のワークショップは、問題意識が色んなレベルで存在する、ということがわかったという点では、色々面白かったけど、その問題意識のズレをどう回収していくのか、という難しさも感じてしまった。ただ、それなりの人数が「投げ銭」をキーワードに集まって議論することができた、というそれだけでも、何だか楽しかったので私(わたくし)的には満足。お祭りとしてはまずまずの成功では(大道芸としてはちょっと?)。
 というわけで、ひつじ書房の方々を始めとするスタッフの皆様に、感謝を。
 でも、仕事に悪影響がでるような無理は、しないでほしいと切実に思う……(それでは本末転倒)。

 本はジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『星ぼしの荒野から』(ハヤカワ文庫SF,1999)なんてのを読んでいたりはするのだけれど、正面から何か書けるかといわれると、ちと書けない……。
 お気に入りは「おお、わが姉妹よ、光満つるその顔よ!」「ラセンウジバエ解決法」「スロー・ミュージック」「たおやかな狂える手に」かな。悲劇的な事態を乾いた文体でさらりと書いてみせる冷徹さと、にも関わらず狂おしいほどに溢れるロマンチシズムの絶妙なバランス(でもちとロマンよりかな?)が、もうたまらんっつー感じ。表題作は、最初に『SFマガジン』(だったと思うんだけど……)で読んだときは、めちゃめちゃ感動した覚えがあるけど、二度目に読んだら、今一つ乗りきれなかった感じ。何でだろう。


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