1999年5月の読書日記


1999年5月30日

 ああ、また本をあんまし読んでない……。
 昨日は、静嘉堂文庫美術館へ「美術に見る詩歌と物語展」を見に行ってきた。あいかわらず、木がぼーぼー(?)でいいとこだなあ。中身は、和歌や漢詩、あるいは源氏物語のような物語を題材にした絵巻、磁器、漆器などなど。和漢の古典についての教養がないとちとつらいかも。解説読むとなるほど、と思うが、見ただけではなんだかわからん……。目玉は国宝・重文の展示だが、3期に分けて展示されたため、見られたのは『住吉物語絵巻』だけ。国宝の『倭漢朗詠抄 太田切』も見たかった(なら早く行けよという説あり)。
 わかる人にはわかる、わからん奴はわからんでいい、という謎掛け具合が、なんともいえぬ味わい。貴族趣味として批判するのは簡単だけど、知的駆け引きの面白さがわかる人は楽しめたはず。
 最終日直前(今日が最終日)ということもあって、結構人が入っていたけど、ぎゅーぎゅーにならないところが、また嬉しい。いいとこだ……。

 関係ないけど、Niel Sedakaの新作"Tales of Love"を発見! タワー・レコードで見つけたんだけど、なんにも説明ないし、参加ミュージシャンとか作曲者とかのクレジットも、表には出てないので、ホントに新作なのか? と思いつつ買ったんだけど、大当たり。
 ピアノ、ドラムス、ベースに所々キーボード、というシンプルな編成・アレンジで、ジャジーなバラードから、70年代を彷彿とさせるポップチューンまで、歌いまくりだ! いったいいくつだあんた(60歳とは思えん……)! 80年代より若返っているんじゃないかと思うような声、しかも、ポップセンスに衰えなし。いやはや、いい買い物をしたなあ。


山田肇編『鏑木清方随筆集』(岩波文庫,1987)

 クラフト・エヴィング商会の本のタイトルに『どこかにいってしまったものたち』(筑摩書房,1997)というのがあるけれど、そのタイトルは本書にこそ相応しいかもしれない。
 かつてはあった、江戸の香りを残した東京の情景が失われていく様を、清方は残念がりながら、けれど全てを受け入れて、ただ静かに見守っている。
 忘れてはいけないのは、今をこれを読む自分にとって、全ては予め失われてしまったものでしかない、ということだろう。私を含む多くの読者は、ここに書かれた「懐かしい」情景を懐かしむことすら、実は許されてはいない。もう、ここには何も残されてはいないのだから。かすかに残ったかけらのようなものはあるかもしれないけれど、それももう、かつての姿そのままではありえない。ただ、今では決して取り戻すことができない情景というか空間というものが、かつてはあったのだ、ということだけが、確かなことして残されている。
 今はただ、著者の言葉に寄り添いながら、「懐かしむ」気分をほのかに味わうことができる、という幸運に感謝するしかない。その「懐かしさ」は幻想でしかないのだけれど、一つの文化が消え去った廃墟の上に自分たちが生きている、ということを実感することはできる。
 時代順ではなく、一年の中の季節順、という編集なのだが、あまり時期の違いは気にならない。大正から昭和にかけての近代化の動きは、常に一貫していた、ということだろうか。あと、日本においては社会の近代化と戦争は表裏一体だったのだな、というのが、なんだかとてもよくわかる。
 そういう本。


1999年5月17日

 うーむ、更新が一週分飛んだ割には本を読んでいない……。
 昨日は、たばこと塩の博物館に「これを判じてごろうじろ〜江戸の判じ絵〜」展を見に行ってきた。

 判じ絵は「言葉」を「絵」に置き換え、しかもその絵と言葉は無関係で、「音(おん)」だけが共通しているという仕掛けの「なぞなぞ」です。(同展図録「ごあいさつ」より)

 要するに、絵をゴロ合わせで読むと、何か言葉になっている、というしろものだ。例えば、「歯(は)」の絵と逆さになった「猫(ねこ)」の絵を組み合わせて、「箱根(は・こね)」と読ませるとか、まあ、そういうもの(実例を見た方が早いかな?)。下らない遊びと言ってしまえばそれまでだが、一つ二つならそう言って済ませられるとしても、これだけたくさん集まってると、なるほど、こいつぁ一つの文化現象だったんだ、ってな感じである。
 この展示の凄いところは、ほとんどの遊び絵に解答をつけているところ。わずかながら解答が残っている展示品もあるが、大部分はとっくの昔に失われてしまっている。そういった一つ一つの判じ絵をこつこつと読みといていく作業は、並大抵のものではなかったはずだ。何しろ、当時は常識だった言葉でも、今ではほとんど使われない、なんてのはごろごろある。作られた時点では、ある程度頭をひねれば答えが出たのかもしれないが、今となっては、江戸時代の文化や生活に関する様々な知識を総動員しなければ、何が面白いのかすらわからなかったりするのだ。こうなると、判じ絵を読み解く作業は、下らない「なぞなぞ」どころか、江戸時代の文化を読み解く作業そのものになってしまう。
 てなわけで、展示会場はそれほど広くはないけど、解答まで見てたら結構ボリュームも見ごたえもあり。満腹。
 遊びとしての判じ絵だけでなく、実用的な情報共有の手段としての南部絵暦や絵文字経等も展示。これって絵が表音文字として使われている、ってとこは、万葉仮名とある意味似ているかも。しかもこれを読み解くには方言の知識も必要になるのだな。うーむ、奥が深い……。


松本功『ルネッサンスパブリッシャー宣言』(ひつじ書房,1999)

 出版、特に人文・社会系の学術書の出版についての、現場の出版社からの問題提起、とまとめてしまうときれいごとすぎるかな。
 別の言い方をすると、本書は、ある意味で悲痛な叫びであると同時に、ある意味で建設的な提言でもあり、ある意味で冒険的な試みでもある。
 それにしても、正直、人文系の学術出版がここまで追い詰められつつあるとは、まるで認識がなかった。どうりでちょっと硬い本になるとべらぼーに高いはずである。部数が出ない→単価が上がる→なおさら部数が出なくなる、という負の連鎖に加えて、コピーの普及によって、必要な部分だけを手に入れれば良い、という風潮がすっかり定着してしまった。いうなれば、論文集は必要ない、論文さえあればよい、ってなもんである。こうして、研究者が長年の研究を一冊にまとめようと思っても、売れないから出せない、という状況が着々と進んでいくことになる。
 こういう状況を、単純に嘆くのではなく、学問のあり方そのものから論じていき、新しい出版流通の仕組みを模索しなければならない、というのが本書の趣旨、ということになるんだと思う。

 しかし、「基礎の本」を守れ、と言ってすむ問題ではない。本というもの自体がすでに危なくなっているのである。今までの本の役割のうち、ある部分はすでに終わってしまっている。ある部分と言ったが、今まで本に期待されてきたもののかなり多くの部分だと思う。だから、本というものが、ほぼ終わってしまっているということを認めた上で、本を、その今まで果たしてきた役割の根っこのところから、冷静に考え直したい。もしかしたら、本を支えてきた美しい幻想、本に期待されてきたすばらしい機能こそが、本を危機へと導いたものなのかもしれないのだ。

 ちと、引用が長くなってしまったが、出版に携わる人がこうしたことを語らなければならない状況に来ている、という事態そのものの重さを、まずは直視しなければならない、ってことだろう。本などなくなっても構わない、というのであれば、それはそれでいいが、もし、本に生き延びて欲しいと思うなら、本書が投げかけている問いを、受け止めなければならないはずだ。
 特に、図書館関係者は、少なくとも本書のコピーに関する議論とライセンスに関する議論を一読すべきだと思う。図書館は無料貸本屋に徹すればよい、などというのーてんきな議論は、図書館が基盤としてきた図書という存在そのものを、ただやせ衰えさせていくだけだ、ということはわかるだろう。当たり前のことだが、本がその役割を終えてしまっているのだとすれば、図書館もまた同様なのだ(だからこそ、著者は電子図書館について語っているのだと思う)。
 本書が凄いのは、観念的な議論や批判に終わらず、書評ホームページ投げ銭システムといった実践的な試みへとつながっていっている点だ。確かに、本は危機的な状況を迎えているかもしれない。でも、だからこそ、様々な可能性に対して開かれている、ともいえる。試みは失敗に終わるかもしれないけれど、ただ滅びを待つだけなんぞ、つまらないだろう。著者はそう誘っているかのようだ。
 読者としては、その試みに参加するもよし、どうなるのやらと野次馬気分で見物するもよし。どちらにしても、ちょいと楽しそうである。もしかすると、本書の一番面白い部分は、読み終わった後から始まるのかもしれない。


1999年5月4日

 今日は小田急美術館の「絵本の100年展」に行ってきた。何でこんなに人がいっぱいいるんだろう……。まあゴールデンウィークなんだから当たり前と言えば当たり前なのかもしれないけど、地味な主題の展覧会だと思っていたので、ちょっと意外。児童書って結構注目されているんだなあ。子ども連れの若い夫婦が多いのはまあ当然として、アベックが多いのも個人的には予想外。結局、世代的にいうと、10台後半から30台前半くらいまでが中心って感じか。比較的若い世代の絵本に対する関心が高まっているってことなのかな?
 内容は、ここ一世紀の絵本の歴史を、時代時代の代表的作家を軸に見ていく、という感じ。展示が原画中心だったのにはちょっとびっくりした。所蔵を見てみると、ミネソタ大のKerlan Research Collectionを中心にして、国内外の資料を集めてきている。初版本もちょこちょこ出ていて、結構楽しい。よくこれだけ引っ張り出してきたなあ。やるな、朝日新聞社。


フレデリック・P・ブルックス・Jr.『人月の神話 狼人間を撃つ銀の弾はない』(アジソンウェスレイ,1996)

 表紙に「原著発行20周年記念増訂版」とある。原著の最初の版は1975年に、そして本書の底本となった20周年記念版が1995年に出ている。既に歴史的(?)名著って感じですな。何の本かといえば、旧題である「ソフトウェア開発の神話」の方がわかりやすい。ソフトウェア開発において、魔法のように生産性を改善する技術や手法(つまり「銀の弾」)などは存在しない、ということを主張した本だ。
 ただし、ソフトウェア開発に携わっていない人にとっては、複数の人間によって行なわれる創造的事業(機械的でなく、一人で行なう作業ではなく、以前行なわれたことの繰り返しではなく、マニュアル化することが困難な作業、くらいのイメージかな?)を、破綻に導かないためにはどのようにすればよいのか、という処方箋として読む方が面白い。提案される方法は徹底的に実際的で合理的な一方で、表現は比喩などを用いてわかりやすいってのが、なんつーか、考えさせられる。日本のビジネスマンが、訳のわからん(というかわかりやすすぎる)人生訓みたいなもんを読んでいる間に、アメリカではこういう「研究」が行なわれて、その成果が共有されていっているわけだ。うーん。
 1995年という時点での著者自身による再評価もあったりして、ここ20年ほどのソフトウェア業界の変化が読み取れたりするところもなかなかいいけど、(時期的には当然のことながら)オープンソース運動に関する記述が弱いのがちと残念。ここは、本書とあわせて、オープンソースプロジェクトを分析した基本的文献Eric S. Raymond「伽藍とバザールを読んでみることをお勧めする(ついでに続編のノウアスフィアの開墾も読もう。楽しいぞ)。基本的には、著者の主張はオープンソースモデルについても、かなりの部分で合致すると思うけど(「伽藍とバザール」の著者もそう書いている)、研修期間というものの考え方が根本的に異なるのかな?。
 何はともあれ、本書に書いてある方法論を、日本でそのまま展開するのは結構難しいかもなあ(特に役所では……)。何でもそこそこできる人を、適当にぐるぐる異動させる、という考え方とは、到底相いれないのは確か。プロフェッショナルである、ということの意味そのものがずれちゃってるんだろうなあ……。


名和小太郎『デジタル・ミレニアムの到来 ネット社会における消費者』(丸善ライブラリー,1999)

 別になんちゅうこともない本……とか書くと著者に怒られそうだけど……。各章のサブタイトルにあるように「公正vs効率」「標準化vs競争原理」「表現の自由vsセルフ・ガバナンス」「著作権vs私的コピー」といった、様々な行動原理・規範の間で、主導権争いが行なわれており、その中には、インターネットを中心に発達した新たな価値観や行動原理も加わっている、我々はその主導権争いの行き着く先をしっかりと見据えなければならない、ってな感じの本。
 もちろん、上にあげた各章のサブタイトルは単純化しすぎで、もう少し入り組んだ対立になっている、ということが書かれているのだけれど、とにかく、徹底的に図式化して、わかりやすく説明することに撤しているので、あっと言う間に読める。その分、面白味には欠けるなあ。対立する様々な価値観のどれに与するわけでもなく、消費者としてこれだけは知っておくべき、という観点から解説しているのだから、それ以上を求めるのはミスリーディングなんだろうけど……。
 ただ、整理の仕方が非常に上手いので、これは(人に説明する時に)使える、というフレーズは多数。そういう意味では便利だ。
 例えば、著作権のところの一節を引用してみる。

 いっぼう、国有財産法というものがあり、この法律は「国有財産の範囲」として「著作権」を「不動産」「船舶」などと並べている。これは著作権を不動産や船舶並みに管理し処分せよということを意味する。たとえば、国有財産というもの、国民に使わせる場合には、その時価にもとづいて使用料を算出しなければならないルールになっている。だが、政府のもつ報告や文書の時価など、いったいどのようにして算定したらよいのだろう。
 米国ではどうか。著作権法は「合衆国政府の著作物」という条文を設けており、「合衆国政府の著作物は、この法律に基づく著作権の保護を受けることはできない」と規定している。この規定は例外を示していない。したがって、官庁情報は全てパブリック・ドメインにある。

 いや、こりゃわかりやすい。アメリカではじゃんじゃかネット上で公開されている官庁情報が、日本では何でなかなか出てこないのか、これで明快ですな。
 あと、国立国会図書館の支部図書館制度を評価しているのが珍しい。「これは海外諸国にはみられない優れた制度である」とのこと。それから、巻末に引用されている「情報処理学会倫理綱領」(著者はこの倫理綱領をまとめた調査委員会の委員長であった)が面白いかな。本書には載せられていないが、Web上では「なぜ倫理綱領が必要か」という著者の文章が後ろにくっついていて、これがまた面白い。もう少し、こういう問題意識を前面に出しても(もちろんある程度は書いてはあるんだけど)よかったんじゃないかなあ。


タイモン・スクリーチ『江戸の身体を開く』(作品社,1997)

 江戸期にオランダ経由で移入された西洋解剖学が、単に日本の医学のみならず、様々な文化的領域に直接間接に影響を及ぼしていった……ということを論じた本。キーワードは「切り開くこと」。日本にはなかった、あるものを切り開き中をこじ開けて見ることが、真理への道である、という思想が、蘭学者たちを経由していかに様々な領域にまで広がっていったのか(あるいは広がらなかったのか)を、江戸期の文藝、絵画、学問などなどをネタに自在に語ってみせる。こりゃ、すごい。高山宏の訳がまたお見事。特に下ネタが出てくると筆が走る走る。
 扱っている領域が広い分だけ、突っ込みが物足りない(皮一枚剥いだところで終わった感じ)部分もあるが、刺激的であることは間違いない。例えば、こんな議論が展開される。
 杉田玄白は『蘭学事始』で、最初に実際に腑分けに立ち会った時、持っていった蘭書と比べて「一として、其図にいさゝか違うことなき」と思ったと書いている。が、実際には、西洋の解剖図は、個別の解剖の過程を順序立てて描いたものではないし、複数の解剖の知見の結果を総合した理想的な状態を、構造が明確にわかるように描いたものである。ということは、実際の腑分けの過程を見た玄白が、蘭書とまったく同じだ、ということは、本来ありえない。つまり、この話は、漢方と蘭方の対立の中で、自ら学派の優位性を語るために作られた挿話にすぎない。
 といった具合だ。伝統的な日本医学史からは、あんまりこういう視点は出てこないだろう(『蘭学事始』が回想録である以上、その記述を単純に信用するべきではない、という議論は当然ながら以前からある。ただ、現代の日本の医学が、蘭学をその祖としている以上、その基盤を崩すような議論はあんまり出てこない、ということはあるかも……)。こうなってくると、『蘭学事始』をイデオロギッシュな本として、もう一度読み直したくなってしまうなあ。
 最後は、体内の隅々まで切り開いて見ようとする思考が、江戸時代後期の旅行ブームや、数々の名所図会へと連なっていったり、その論旨は身体に張り巡らされた血脈の如く縦横無尽。著者の他の本も積んだままになってるけど、いいかげん読まなくちゃ。
 ちなみに、和洋の解剖図を多数載せているので、その手の図版が駄目な人は見ない方がいいかも。特に日本の解剖図(というか腑分けの記録図)は、抽象化されていない分だけ、凄惨さが際だつ。それだけに、江戸の蘭学者たちが、簡単に西洋の方法論を自らのものにしたわけではないのだ、ということがまたよくわかるのだけどね。


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