1999年4月の読書日記


1999年4月25日

 ううう。何だか知らんが本が読めなーい。
 まあ今日は東京国立近代美術館に「鏑木清方展」を見に行けたので、よしとしよう。いやー、生で見るとまた違いますな。そうそう、「妖魚」がいかに清方にとって特異な作品であったかが何となくわかったのも収穫。これだけ視線が違うわ。この作品が受け入れられていたら、清方は全く異なる方向に進んでいたかもね。
 しかし、何ゆえに挿絵がないのだ! 今回取り上げられたのはいわゆる本画家としての清方であって、若き日の挿絵画家清方ではない。近代性という点からいうと、挿絵画家の部分まで含めた上で考えないと全貌は見えないんじゃないかなあ。近代美術館の名が泣くぞー。そういう意味では、『芸術新潮』4月号の方が面白いともいえる。まあ、次の機会に期待することにするか……。
 後は、大和和紀『ひとりぼっち流花』(講談社漫画文庫,1999)とか、高橋亮子『しっかり!長男』(双葉文庫名作シリーズ,1999)なんぞを読んだり。両方とも、今読むとさすがに暑苦しい部分もあるが、前者は女の子の、後者は男の子の成長と自立の物語として読みごたえあり。ちなみに作品の構成としては『ひとりぼっち流花』の方が上手い。さすがは大和和紀だよなあ。『しっかり!長男』は構成的には後半ちとつらいが、キャラクターの味でそのあたりをカバー。ちと力業?
 どちらも、主人公の顔の描き方そのものを徐々に(時には結構大胆に)変えていくことで、主人公の内面の成長をも描き出す、という手法の見事な実例として見ても面白い。はっきりいって最初と最後では絵的には別人だが、続けて読むとちゃんと同一人物に見えてくる。まあ、意図的というよりは、自然にそうなってしまった、ということなのかもしれないけど……。


1999年4月18日

 昨日は理化学研究所の一般公開(和光本所のやつ)を見に行って、半日つぶれてしまった。しかし、それでも全部は回れず(ん? 「回られず」か?)。朝から入り浸らないと駄目だなー。にしても、久しぶりに理系な雰囲気を堪能できて、満足満足。研究室によって公開に対する姿勢が全然違うのが面白いよね。ほったらかしで誰もいない(薬品とか実験器具とか置いてあるし、まずいのでは……)部屋もあれば、どんどん積極的に説明してくれるところもありで。
 この公開って、市民へのサービスという側面もあるけど、同時に企業へのアピールの機会でもあるのか、ということに終わり際になって気が付いた。もしかして、基礎研究のとこと応用のとこで、公開への取り組みが違ったりするんだろうか。うーん、分からん。来年行けたら確認しようっと。
 そんなこんなで、まともに本を読んでいない……と思ったが、アニメの新番組チェックなどしてるからいかんのだな。反省。

 サライ』1999年5月6日号には、「海外のプラントハンターが追い求めた花咲く都江戸の植物」と題する特集があり。結構、力の入った特集で20ページもある。日本の植物がどのように世界に広がっていったのか、という話を、ビジュアルな誌面構成で展開。ポイントはきっちり押えてくるところが、上手いですな。というか、最近ちゃんと勉強していないから、間違いがあっても分からないんだよなあ……。なんとかせにゃあ。
 後は、Voyagerのサイトで始まった、T-Timeマガジン『Ice Tea 』が面白そう。まだ全部は読んでないけど、要するにあっちゃこっちゃのサイトで発表されたテキストの傑作選みたい。一種のアンソロジーですな。なるほど、この手があったか、という感じ。

 全然関係ないけど、ブライアン・ウィルソン、ちゃんと来るんだろうか……。チケット三日連続で買っちゃったよ(馬鹿)。ワンダーミンツとジェフリー・フォスケットも一緒みたいだし、ほんとに来るといいなあ。飛行機嫌いは直ったんだろうか……。


1999年4月11日

 天理ギャラリー第111回展「おもちゃ絵の世界」を、見に行ってきた。ここで言う「おもちゃ絵」とは、明治期の一枚物(三枚組みもあるが)の版画の一種で、子どもがそれを切り抜いたり組み立てたりして遊ぶことを前提にしたもの。着せ替え絵、ものづくし絵、物語こま絵、見立て絵、組み上げ絵という分類で展示されていた。
 それにしても、よくぞこれだけいい状態で残っていたなあ、の一言に尽きる。さすがは天理というべきか。一部、切り抜かれたものなども参考展示されていたが、ほとんどは完全にして最良、といった感じ。この手の印刷物は大衆的であればあるほど残らないだけに、なかなか感動である。
 それにしても、組み上げ絵のマニアックさには舌を巻く。ほとんど知的パズル。組み上げ絵マニアとか、いたんではないかな。ちゃんと組み上げ例を再現した天理参考館の学芸員の方々もえらい。
 しかし、土曜の昼すぎだというのに、他に誰もいないってのが凄いよなあ……。もったいない。
 図録はいつもの薄手のものだが、文化史的な解説も加えられていて、勉強になる。児童文化史に関心のある人は必読。


 そうそう、書評パンチ書評ホームページのコンテンツの一つ)に掲載されていた、仲俣暁生「パブリックとプライベートの間になにがある――『中央公論』4月号の大塚英志論文をめぐって」を読んで、ちと気になったので、大塚英志「インターネットの中の〈私〉――移行対象領域論3」(『中央公論』1999年4月号)を読んでみた(どうでもいいが、今の『中央公論』、中身では『諸君』と区別がつかんぞ)。
 うーん、津野海太郎・粉川哲夫批判の部分が、「パブリックとプライベートの間……」の一応の論点なんだけど、「インターネットの中の〈私〉」の中で展開されているそれって、なんだか中途半端。単純なインターネット礼賛に対して違和感を感じるのは当然なんだけど、それを十把一絡げに<醜悪>の一言で片づけるのはちと安易では?、という感じ。まあ、所詮、話の枕として書いただけ、ということなんだろうけど。
 そもそも、インターネットを自分のメディアとして取り込みつつある津野・粉川を、『中央公論』という場で批判すること自体が何だかなあ、という感じではある。むしろ、自分より上の世代を批判する場として『中央公論』を選んでしまう大塚英志のありようそのものこそ、問題として語られるべきじゃないのかな、という気も。
 それにしても、何でまた(しかも今さら)エヴァンゲリオンが出てくるのかなあ。大塚英志くらいの人なら、一々エヴァンゲリオンを持ち出さなくても書けるだろうに。これまた不思議。この拘りは一体何なんだろう?


ロバート・ダーントン『革命前夜の地下出版』(岩波書店,1994)

 確かこれは、リブロの在庫僅少本フェアで買ったんじゃなかったかな。ということは、既に入手困難本? この手の本でも5年で消えるのか……。
 内容は、フランス革命(1789年の)前夜のフランスにおけるアンダーグラウンドな書籍出版と流通の様相を、スイスのフランス国境の町ヌーシャテルの出版業者、ヌーシャテル印刷協会関連の膨大な文書(もんじょ)資料を基礎にして明らかにした論文集、という感じ。何でスイスの出版社かというと、当時のフランスのアンダーグラウンドな書物は、主に密輸によって供給されていたからなのだな。
 文書資料を使った論文というと、その引用が延々と続いてその分野の素人にはうんざり、というケースが多いけど、ダーントンという人は、そういう方法論はとらない。文書に書かれた点を点のまま提示するのではなく、多くの資料から断片的な情報を集め、まとめあげ、線として描き出すことに注力している。
 例えば、フィロゾーフになることを夢見てパリに出てきた一人の人物が、ついには警察のスパイにまで身を落としていく様を描き出したり、言葉と贈り物を使ってまんまと協会への支払いを引き伸ばし続けた書籍販売業者の手口を明らかにしたり、とにかく、事例が具体的で滅法おもしろい。そして、そうしたミクロの様相を明らかにすると同時に、それぞれの事例の背景にある時代的・社会的状況までも何げなく語ってしまうこの語り口。上手い、としかいいようがない。
 革命前夜のフランスの文化的状況を把握するためには、いわゆる有名どころの作家・作品だけを見ているだけでは駄目、というのが、本書における著者の立場だ。特に、闇で取り引きされていた誹謗文書などのスキャンダラスな書物が、王権の神聖さをはぎ取るために、少なからぬ役割を果たしたこと、という指摘は重要。啓蒙思想の表の面しか見ていないと、そうした面は見えてこない。
 そして、ダーントンは、そうした誹謗文書(パンフレット)の書き手を大量に生み出した啓蒙思想の功罪を語り、世に認められず底知れぬ怨嗟を胸に抱えたまま闇に消えていった多くの書き手たちの有り様を、生き生きと描き出す。そのことによって、啓蒙思想が抱えていた様々な様相が、くっきりと浮かび上がってくるわけだ。マクロな視点だけでは捉えきれない、時代の様相を描き出す、という目標はしっかりと達成されている。お見事。
 あと、書物の社会史における数量的分析の限界を指摘した最後の論文も重要かも。必要ない、ということではなく、それだけでは明らかにならない部分がある、という(ある意味で当たり前の)ことなんだけどね。
 それにしても、ダーントンって『猫の大虐殺』の人というイメージしかなかったけど、『パリのメスマー』もこの人だったのね。うかつ。


1999年4月4日

 芸術新潮』4月号の、「特集・鏑木清方が描き、語る・私の東京ものがたり」を読んだ(というか見たというべき?)。やっぱり、清方はいいねぇ。もちろん、展覧会用の肉筆画もいいんだけど、個人的には初期の挿絵や、失われた明治の市井の生活を描いた作品なんかにぐっとくる。
 特に、下町の日常的な情景を描いた作品なんか、何だか知らないけど泣けてくる。多分、これって理想郷としての過去、なんだろうね。記憶の中にしかない、決して手の届かない桃源郷……。
 もちろん、美人画も良いのは当たり前。清方だからね。いくつかの作品でモデルになった奥さんがまたきれいな人でねぇ……って、そりゃ関係ないか。
 どの作品でも、ちょっとした小道具や視線など、画面の端々に、「物語」を感じさせる工夫が息づいているのが凄い。挿絵画家時代から一貫して、深く「物語」を描き出すことにこだわった人だったのだなあ。
 エッセイもなかなか味があってよいことを発見(って以前から言われてたことだけど)。やはり岩波文庫で出た随筆集、買うべきか……。
 というわけで、これで予備知識も手に入れたし、早く東京国立近代美術館でやっている「鏑木清方展」(5月9日まで)に行かなくては。
 他の記事では、山下裕二「フランスVS日本・国のおタカラ交換展騒動記」が(例のドラクロワの「自由の女神」の話ね)、文化外交の浅薄さに鋭い突っ込みを入れてて楽しい。あと、「ある在日韓国人の夢――東洋陶磁美術館の新コレクション公開」の、コレクション寄贈までの経緯が泣かせる。この二つの記事を並べて載せるところが、編集者のセンスの良さ(意地の悪さ?)だよなあ。
 ちなみに次号の特集は早稲田大学演劇博物館。こりゃまた買わねば……。


1999年4月3日

 『ラトルズ 四人もアイドル』のビデオ(日本版だ!)を見て笑い転げてしまった。噂には聞いていたがめちゃめちゃマニアック……。これを超えるビートルズ・パロディはありえないだろうなあ。とにかく、字幕入りで見られるようになったのが嬉しい。ビートルズ・ファンは当然見るべし。モンティパイソン・ファンもボンゾズ・ファンも必見だな……ってそういう人は当然もう見てるか……。


小野不由美『屍鬼』(新潮社,1998)

 鼓動が、高鳴る。
 それほど温かくはないはずなのに、気が付くと額が汗ばんでいる。
 段落の隙を縫って、時計を見る。もうこんな時間だ。眠らなければ。
 そう思いながら、再び目は文字を追っている。あと少し。次の切りのいいところまで。だが、ページをめくる手が止まらない。憑かれたように、続きを求めてしまう。
 あと少しだけ。あともう少しだけ……それを繰り返している内に、緊張感に堪えられなくなる。限界だ。体もいつの間にかすっかりこわばってしまっている。軽く伸びをして、時計を見た。もう眠らなければ。
 そしてベッドに入る。眠るんだ、と自分に言い聞かせるが、いつの間にか、続きはどうなるのだろうか、あの登場人物はどうなるのだろう、そしてあの伏線はどう生きるのか……頭に次々と浮かんでくる。やめよう。考えてはだめだ。また読みたくなる。自分を抑え込んで、眠ろうとする。
 だが……

 と、いうのを数晩繰り返して、ようやく『屍鬼』を読了。寿命は縮まったけど、久しぶりに読んでる間、他のことがどうでも良くなったなあ。おかげで部屋の中むちゃくちゃ……ってそれはいつもか。
 タイトルと、「『呪われた街』に捧ぐ」、という献辞(ほんとは英語だけど)、そして冒頭のシーンを読めば、分かる人にはどういう話か分かってしまうだろう。その通り。そういう話だ。
 ただし、舞台は日本の孤立した山村。その村が崩壊していく過程が、丹念に、そして執拗に描かれていく。上巻と下巻、この厚味(本屋さんで見てみよう!)でしかも二段組というボリュームも何のその。読み始めたら止まらないとはこのことだ。
 が、上巻と下巻では、かなり趣が異なる。一言でいうなら、上巻は「こわい」、下巻は「むごい」、という感じ。あんまり具体的に書くとネタばれになってしまうのだが、上巻は、じわじわと何かが迫りくる、という恐怖を、その「何か」が何なのかを直接的には書かずに描いていく。下巻は、その「何か」そのものを描くことに主眼が置かれている、というところか。
 とにかく、上巻の緊張感は凄まじい。読んでいて、息が詰まる。もちろん、迫りくる「何か」が何なのか、読者である自分はとうに知っているのだが、そんなことは問題ではない。進んでしまえば、見たくないものを見ることになってしまうのが分かっているのに、歩みを止めることができない。登場する村人たち一人一人が、丹念に描かれれば描かれるほど、感情移入の度合いは高まる。そうなってしまえば最後、彼らを待ち受ける運命を見届けないわけにはいかない。それは、恐るべき罠だ。
 そして、下巻。「何か」は姿を現し、徐々に進行してきた死は、一気に村を覆い尽くす。上巻冒頭のシーンで、どこにも逃げ道がないことは、知っているはずなのに、どこかに救いはないのか、希望はないのか、と探してしまう自分がいる。もちろん、そんなものはない。上巻で描かれた魅力的な登場人物たちが一人、また一人と消えていく。そして……。
 クライマックスは、まさに死の祝祭と化す。もちろん、人はただ死んでいくわけではない(人と屍鬼は、どこまでも相似形なのだから)。そして、壮絶な盛り上がりを見せて、物語は終局を迎える。読み始めてから、この終局に至るまで、何と充実した時間だろう。

 が、しかし……。凄惨な、恐ろしくも哀しい物語であるはずなのに、読後、どこかに違和感が残る。
 何故、このラストでなければならないのだろう。
 そして何故、上巻であれほど丹念に村の生活や風習、社会構造までも丹念に描かなければならなかったのだろう。もちろん、そこにリアリティがあればあるほど、恐怖感は高まる、というのは分かる。下巻における医学的な描写も、その一環だろう。だが、本当にそれだけなのか?
 読んでいる間、見事なまでに構成された村の社会構造や風習が一つ一つ破壊されていく姿に、興奮を覚える自分がいなかったろうか。村の社会の中で様々に生きる登場人物たちの未来が、次々と失われていく度に、陶然とする自分がいなかったろうか。
 多分、これは罠だ。人は、人であるままで、人でないものの側に立つことができる。人としての喜びや哀しみとは別のところで、物語は語ることができるし、読者はそれを楽しむことができる。そのためにこそ、村の生き生きとした姿は詳細に描かれなければならなかった。それを壊す快楽を描き出し、読者を人でないものの側に引きずりこむために。この物語を楽しんでいる内に、読者はいつのまにか、人でないものの側に立つことになるのだ。
 そう考えて、ようやくラストに納得がいく。読者は、物語を作り出した作者と同じ側に呼ばれているのだ。その呼びかけに答えるかどうかは、もちろん、個人の自由なのだが。

 などとごちゃごちゃ考えなくても、単純に楽しめばいいし、とにかく登場人物の誰かしらには感情移入できるはず(もちろん、それも罠の内だけど)。キャラ萌えできない人には、小説内小説のようなメタな構造も用意されているしね。多重な読みができるようにちゃんと作ってあるわけだ。もちろん単純なエンターテイメントとして読んでもグー。お気に召すままどうぞ。
 あと、個人的には、後半、色々何だか自分の実生活とある意味で相似形の部分があって、考えさせられるものがありましたな。これ以上具体的に書いてしまうとネタばれになるから書かないけど、分かる人には分かるかも。


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