1999年2月の読書日記


1999年2月28日

 ちょとメモ書き。  国文学研究資料館で2月15日から3月24日まで、「版本の挿絵展」を開催中とのこと。行きたいけど、土日祝日休館で9時半から4時半までというのがちときつい。休み取れるかなあ。
 丸善日本橋店では「100年前の花々――ボタニカルアート&博物画展」を、2月28日から3月6日まで開催。買える金額ではないのは分かっているけど、ルデゥーテ、メーリアンの逸品が展示されるとあっては、こりゃ行かないわけにはいかないわな。と思ったので、今日行ってきた。眼福眼福(でもメーリアンはあんましなかったぞ)。でも、買う気ないのに店員に話しかけられちゃうとちとつらい。ついでに同時に開催されていた西洋古写本の展示も見てきた。これまた眼福。
 あと、全然関係ないけど、NHKの脳死判定フィーバーは異常だよなあ。災害でもないのに同じニュースを一つの時間枠で10回以上繰り返す、ってのは、ちょっと普通ではない。何か事情があるんだろうか?


『季刊本とコンピュータ 1999年冬号』(大日本印刷,1999)

 とりあえず、滝沢武「楽観的ハイパーテクスト論に異議あり――本をどのように読むか」は必読。本を読むという行為は、読んでいるその本そのものだけではなくて、他の以前に読んだ本や、同じ本の別の箇所と関係付けをしながら行なわれている。このことをきちんと論じることなしに、電子的に実現されるハイパーテクストによって読む行為そのものが根本的な変革をきたす、というような論を安易に展開するのは、ちょいと違うんじゃないの? という話。読むという行為は、ハイパーテクスト論を待つまでもなく、本来、ハイパーテクスト的なものなのだ、という指摘が(いわれてみれば確かにそうなのだが)新鮮にして刺激的。
 それから、熱いのは、鶴見俊輔・多田道太郎(対談)「カードシステム事始――廃墟の共同研究」かな。カードシステムうんぬんよりも、戦後初期の京大人文科学研究所の熱気が感じられて、何とも羨ましい。いいなあ……。
 出版危機絡みの二つの討論は、面白いんだけど、今までの議論の繰り返しの部分も多いかな、という感じがちとあり。ただ、だんだん具体的取り組みが動き始めてきたところが見えるのがポイントか。特に、ひつじ書房の書評ホームページは要注目。リニューアルされて、がぜん面白くなってきた。オンライン専門書店を目指す「全知識書店」構想にもうっとり……。
 ちなみに、この『本とコンピュータ』、オンライン版も楽しい。ただし紀田順一郎先生の連載はやたらと重いので、ダイヤルアップ接続の人は諦めた方がいいかも。


1999年2月21日

 ちょっとメモ書き。
 『MACLIFE』3月号の特集「「フォント」の基本を学ぶ」の中の柴田忠男「文字コードを巡り何が問題になっているのかあなたは知っているだろうか?」という記事(p.120-121)は、JISコード批判に対する反論の形を取りつつ、JISコードとユニコードについて解説してくれている。短いながら、問題の概略を知るのに便利。勉強になるなあ。


『東武美術館所蔵 オノレ・ドーミエ版画 II』(東武美術館,1999)

 ドーミエ(1808-1879)は、フランスの画家、というかカリカチュアを描いた人、といった方がいいのかなあ。油絵ももちろん描いているが、やはり風刺新聞で活躍したリトグラフ(石版画)の人、って感じ。
 本書は、東武美術館所蔵のドーミエ版画コレクションの図録の2巻目(全3巻の予定)であると同時に、同館で開催されている「オノレ・ドーミエ版画展II [顔/かお/カオ]」(会期:1999年1月25日〜2月23日)の図録でもある。ということはどういうことかというと、展示されているものよりも、この図録に掲載されている作品の方が、数がずっと多いのだな。結構お徳な図録である。
 ちなみに1巻目は1997年の刊行。当然、展示会の第一段も1997年。次も2年後かどうかは知らないが、息の長い企画である。偉いぞ、東武美術館。結構見直してしまった。
 それにしても、1巻と2巻、両方買ったらべらぼうに重かった……。これから入手しようという方は覚悟しておいた方がいい。だが、2巻だけ買うなんて無粋な真似はしちゃいけない。何故なら、1巻には傑作「トランスノナン街、1834年4月15日」が収録されているのだから。この「トランスノナン街…」は、1834年4月13日から14日にかけて起こった軍による住民虐殺事件を題材にしたものだ。他の作品では必ず見られるユーモラスな表情はここにはない。何故なら虐殺の犠牲者である死者を描いた作品だから。静かな哀しみと怒りが、文字通りの意味で見る者に迫る。
 が、この作品は、ドーミエの全作品の中では、例外中の例外のようだ。こうしたシリアスでストレートな作品を描く力を持ちながら、他の作品でのドーミエは絶対に「笑い」を手放そうとはしない。けれど、どんなに隠しても、その鋭い視線のありようがほの見えてしまう……ような気がしてくるので、ぜひ、「トランスノナン街…」を見てから、他の作品を見るのをお勧めしておく。見る前と後で、私は結構、印象が変わった。ついでにいうと、ドーミエという人は、常に穏やかで、温厚で、控え目な人だったらしいけど、実は内に熱いものを秘めた人だったんじゃないかなあ、などと想像も膨らんだりして二度おいしい。
 ちなみに、展示会場は、結構すいていた。最終日前最後の土曜日の午後でこの程度か……という気はしなくもないが、見る側にとってはあの程度が快適。別にドーミエについて深く知っているわけでも何でもないが、見ていて、ドーミエという人は表情(体全体を含めた)の持つ面白さに憑かれた人だったんじゃないか、という気がした(だからこそ、表情が失われた死者を描いたときに、凄まじいまでのメッセージ性を持たせることができたのかもしれない)。政治的風刺がメインの作品ですら、そこに描かれた政治家たちの表情は何とも言えずおかしい。それと、キャラクターを立たせるのが上手い。何度も悪役として登場する保守的な政治家たちの姿は、一度覚えてしまうとどんなにちょい役で出てきてもすぐ分かる(風刺された政治家の一人が、ドーミエに初めて会った時、握手を求めて駆け寄ってきた、というのも何となく分かる)。
 市井の人々の生活を描いたり、弁護士のような権威ある人々の生態をからかったり、作品の幅は広いが、どの作品でもやっぱり、焦点は表情にあるような気がする。でも、何故か若い女性の表情だけは、ほとんど出てこないんだけどね(若い女性が出てくると何故か背中を向けてたりするんだよなあ)。何でだろう?


遠藤淑子『心の家路』(白泉社花とゆめCOMICS,1999)

 これだけのレベルの短編をコンスタントに描けるというのは、やはり凄い。
 相変わらず得意技の(疑似)家族構築ものもちゃんとある(昨日死滅したとか書いたような気もするがまあそれはそれ)が、それよりも、珍しくストレートな(?)恋愛もの、「7月」には驚いた。こういう作品が描けるなら、これからもますます楽しませてくれそうだ。嬉しい。
 この「7月」は、学生時代の恋愛を回想する形式で描かれている。互いのエゴからすれ違っていく二人の関係を、男性の視点から描いた部分が秀逸で、どうして自分に優しくしてくれないのかと(自分のことは棚に上げつつ)苦しむあたりが実にぐっとくる。さらにそれを客観的に見る成長した現在の自分、という視点を導入しているところがまた上手い。大人になるのも悪くない、と思わせてくれる……って、私ゃもう大人になっちゃってるんだけど……いや、深く考えるのはやめとこう。うん。
 この「7月」に限らず、遠藤淑子の作品は、いつも未来の可能性を(保証は何もないけれど)少しだけ信じさせてくれる。そのことのありがたみが分かる人にはお勧め。分からない人には、猫に小判、豚に真珠。


1999年2月20日

ゲオルグ・ジンメル『ジンメル・コレクション』(ちくま学芸文庫,1999)

 ジンメル(1858-1918)という人は、ドイツで活躍したユダヤ人哲学者、ということらしい。何となく手にとってしまい、何となく買ってしまったので、何となく読んでしまった。「エッセーの思想家」と呼ばれるだけあって、文章は比較的読みやすい。が、後半はそれなりには歯ごたえがあるのでご注意。まあ、フッサールとかああいうのに比べたらめちゃくちゃわかりやすいんだけど。
 ちなみに、『もてない男』が面白かった人は、収録されている「愛の哲学断章」「現在と将来における売春についての覚え書き」の二つの文章は必読かも。

 私がお前を愛することで、お前に対しては、私のうちのエゴイズムが跡形もなく消えうせてしまうかもしれない。けれども、私がお前を愛するそのことは、お前にたいする愛情ゆえではない。
 ですから、愛の哲学が、原因と結果を取り違えた堂々めぐりとならないためには、愛の起源はエゴイズムにしかないと言えるでしょう。愛の根はエゴイズムでしかありえないのですから、愛情のこの起源によって、愛の結果と実りのなかに根元から何かが浸みこんでしまうのではないでしょうか。(「愛の哲学断章」より)

 こういう鋭い指摘がバンバン飛び出すんだけど、それじゃあ、何か明快な結論が出るかというと、出てこない、というのがこの人の特徴らしくて、「ひょっとしたら」の思想家、などとも呼ばれているらしい。なるほど。
 が、私が一番面白かったのは、芸術論の部分。優れた肖像画は人間の内面を描くことを追及した結果生れるものではなく、あくまで絵画としての構成(個々の部分のバランスや組み立て)を徹底的に追及した結果として、描かれた人の内面を完璧に表現しているように見えてしまうものだ、という議論が展開される。要するに、目的論的な自画像論を否定して、芸術家はあくまで芸術の内的な目的に従って作品を作っている、と言った上で、なおかつ、結果として得られるものが芸術の外にある何かを表現しているように見えてしまう、それこそが、優れた作品であることの条件であるという議論が展開されるわけだ。
 何でそれが面白いのかって? この論理は、ロックやアニメやマンガにも適応できるしもしれないから。あくまで商品として優れていることを追及した作品が、結果として商品であること以外の何かを表現してしまう。それこそ、私が求めているものかもしれない。
 もちろん、ジンメルはヒントをくれるだけで、何も答えてはくれないのだけれど。


わかつきめぐみ『夏目家の妙な人々』(講談社KCデラックス,1999)

 ……変わらない。
 読後、一瞬八〇年代に戻ったような気分になる。いや、もちろん悪い気分ではない。むしろ心地よい。
 心地よいのだが……。どこかでこの心地よさは幻だ、と冷静に認識してしまう自分がいて、どっぷりとは浸りきれない。
 まあ、考えてみれば当たり前か。わかつきめぐみがかつて描いていたような、八〇年代に展開された性善説(?)に基づいた家族再構築ないし疑似家族構築の物語(成田美名子『エイリアン通り』が代表ね)は、九〇年代には死滅してしまったのだから。今、こうしたほのぼの家族の物語を読んで、何の違和感も覚えない方が不思議というべきかもしれない。
 はっきり言って、最近のマンガを読みたいという人に、今、わかつきめぐみを読む意味はあるのか、と問われれば、私は即座に「ない」と答えるだろう。が、それでもいいのだ。人は今だけに生きているわけではないのだから。かつてわかつきめぐみを読んでいた人、そして、今のギスギスしたマンガに馴染めない人には、迷わず、私は本書を勧める。 それに、こういう作品「も」生き残り続けることができることが、マンガの成熟だと思うしね。
 ただ、あまりに心地よすぎて、中毒になりそうなのが怖い……。冷静な自分がいてくれないと、現実に戻ってこれなくなりそうだ。うーん。いいのか悪いのか……。


1999年2月17日

 ちょっとメモ書き。
 天理ギャラリーにて、3月1日から4月13日にかけて、「おもちゃ絵の世界」展が行なわれるとのこと。月曜から金曜が10:00-18:00、土日祝は10:00-16:00。入場無料、会期中無休とは太っ腹。これは行かねば。


1999年2月14日

小谷野敦『もてない男――恋愛論を超えて』(ちくま新書,1999)

 ああ、妬ましい。悔しい。どいつもこいつもいちゃいちゃしやがって。爆弾でも投げてやろうか。なんで俺ばっかりこんなに孤独なんだ。だいだい俺は東大出てるんだぞ。こんなに女にもてなくて振られてばっかりいるんなら、なんで苦労してあんなに勉強したんだ。あいつら、頭はからっぽのくせしやがって。少おしばかり背が高くてしゃっ面がいいだけで、下手すっと日本がアメリカと戦争したことも知らねえで、アメリカの首都はニューヨークだと思ってんじゃねえか。

 念のために書いておくが、私の言葉ではない。引用である。しかし、何とバレンタインデ−に相応しい一節だろうか。引用しながらも心が浮きたってしまう……って、だから私の言葉じゃないってば。いや、ほんとに。
 というわけで、むちゃくちゃ久しぶりの更新である。ついでに、サイトの構造もいじろうかと思ったのだけれど、面倒だから、他はほとんどそのまんま(なんかもうぐちゃぐちゃだからそのうち何とかしよう、と思ってはいる)。ただ、本ごとにわけて感想書くのはつらいので、やめることにした。ほんとに読書日記にしてしまおう、というわけ。

 さて、冒頭の引用文だが、最近話題の小谷野敦『もてない男――恋愛論を超えて』(ちくま新書)からの引用だ。基本的には、同じ著者の『男であることの困難』(新曜社)や、『〈男の恋〉の文学史』(朝日選書)で展開された話を、もう少しパースペクティブを広めに取りつつフォローしたもの、という感じの本である。
 と、いっても何のことだかわからない人もいるかもしれない。めちゃくちゃ乱暴に要約すれば、特にフェミニズム的な視点からの恋愛概念の読み直しの中で取りこぼされてきた、「もてない男」(あるいは恋愛下手な男でもよい)を取り上げて、「もてない男」であることとはどういうことなのか、そしてそれは悪しきことなのか、という問題提起を、実体験と実感をベースに、古今東西の文学作品(だけではないが)を材料に語っていく、ということになろう。
 もちろん、フェミニズムを仮想敵に、実体験をベースに語る、というのは(本書でも書かれているのだが)多分に戦略的なものだろう。が、それでも、自分自身がもてない、ということを語る時の、その文章の熱さには圧倒される。いや、圧倒されるのは読み手である私ももてない男であるからかもしれない。少なくとも読者がもてない男である場合には、著者の意図を超えて、本書や『男であることの困難』で語られた言葉は、恐ろしいほどの共感を呼んでしまう。
 素朴な「もてない男で何が悪いんだ」という開き直りだけであれば、これほどの共感は呼び起こさないだろう。小谷野敦という人の凄いところは、もてない男であることは悪ではない、と言い切りながら、だからといって、もてない男であるが故の恋愛の苦悩から逃れられるわけではない、と語ることができるところだ。恋愛は幻想だ、などとうそぶいたところで、幻想にどっぷりとはまり込んでしまった人間には何の意味もない。この状況に出口などはないのだ。この、もてない男であることの救いの無さを語りうる、という一点だけでも、私は小谷野敦という人を尊敬する。
 それはつまり、本書を読んでも、そこにあるのは救いではない、ということも意味している。ただほんの少し、自分のいる場所が見えてくるだけだ(本書は、もっと知りたければ、こういう本を読みなさい、というブックガイドでもある)。ただ単に、「自分だけではなかった」という気分を味わいたい人のニーズにも応えるように書かれてはいるが、本来はそういう本ではないだろう。もてない男性は、そのことを念頭に置いた上で読むことをお勧めする。
 もてる男ともてる女には、理解しがたい世界かもしれないが、こういう苦しみがあることも、知っておいたほうがよい。多分、異文化に接したような感覚を味わえるはずだ。少なくとも、「もてない」ことを蔑むことがどういうことなのかを知ることはできる。もちろん、それで「もてない男」が救われるわけではないのだけれど。


P・オースター『ムーン・パレス』(新潮文庫,1997)

 昨年末、病気で入院した折りに読んだ小説なのだが、忘れないうちに簡単に感想を書いておこう。
 このオースターという作家については全然知らなかったのだが(差し入れで人から借してもらった本なのだ)、結構映画化などもされているそうだ。ストーリーは……なんか、紹介してどうこういう小説ではないなあ。
 まあ、あえてまとめれば、不幸な過去を背負った、だけどどこか能天気で、なんだか神経質で、結構まじめな主人公が運命の悪戯につぐ悪戯で、不思議な出会いをしたり、とことん転落したり、立ち直ったり、また転落したりする、という話である。
 病院のベッドで読んでいると、不思議とあんまり違和感が無かったのだが、考えてみると結構変な話だったりする。多分、病院という場所の外の世界から隔離された感じが、本書の持つ、どこか世界とそりが合わない、という感覚と、何となくシンクロしていたからかもしれない。
 退院して、世間に復帰してみると(ほんの数日間入院していただけだったのだが)、本書の持つ、世界との距離感、というのが何とも妬ましくも羨ましくも感じられてきた。主人公は、結構平気でそれまでの蓄積をほいほい捨ててしまう(そして、後でめちゃくちゃ後悔すること多し)のだが、その切り捨ててしまえる、ということ自体が、なんだか妬ましいような羨ましいような感じなのだな。
 本来はこういう読み方をする本ではないような気がするけど、私にとっては、世界を切り捨てることに対する憧れを募らせると同時に、自分にはそれは絶対できないことを悟らされてしまう、そういう本なのだ。


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